1945年以降に精神科で起きた10個の重大な変化
精神科や脳科学については近年様々な進歩があると報道されますが、実態はどうなのでしょうか。少なくとも僕は10年以上精神科医として仕事をしてきて、「すくなくともこの10年は大きくは変化していない」と感じています。その中で気になった記事です。
History of Psychiatryという雑誌があるというのも驚きですが、その雑誌の25周年記念の記事だそうです。
イリノイ大学の歴史学教授であるMark Micale氏によると
1.1950年代の精神薬理学の革命
2.脱施設化
3.精神分析学の衰退
4.精神療法の精神科医から医学の訓練を受けていない人たちへのシフト
5.ビッグサイエンスの台頭
6.1980年代からのMood-stabilizingやMood-enhancing化合物の発展と普及
7.製薬会社の影響力の増大
8.DSMのインパクトの増大
9.精神科診断の激増
10.同性愛の脱病気化
が1945年以降に精神科で起きた10個の重大な変化とのこと
要は、精神療法が中心ではなって薬物療法が中心となる流れがあることと、操作的診断基準が隆盛してそれに伴って診断構造が変化している、とまとめられそう。
もしこれにいくつか付け加えるとすると、、、
:入院の短期間化 (「脱施設化」に含まれそうだけど)
:器質性精神疾患の診断力の向上
:てんかんの非精神科化
:スティグマの減少
:精神外科の衰退
:発達障害診断の隆盛
とかでしょうか。
以下はぼくが考えた「精神科で昔から変化なく今も続いているもの」です
:ECTの変わらぬ有用性
:バイオマーカーのなさ
:本人の素因による病気なのか、環境による病気なのか判断が困難なこと
脳の世紀と言われたり、オバマが脳の解明を推進すると宣言したりしました。
MRI,SPECT,PET等、「のうみそ」を調べるモダリティは増えています。
でも、その技術の進歩や興味の拡大の大きさに比べて実際の精神科臨床の進展はとても小さいように思います。従事している間になにか大きなイノベーションがあるのではと思って精神科医になったのですが、これまでのところは明らかな驚くようなイノベーションはないように感じています。
今後の10年での変化はどうなるのでしょうか。
(History of psychiatryという雑誌は1990年から季刊で出版され続けていて驚きました History of Psychiatry)
適正な医療の提供と「サービス」との間で
夜間休日は「ほどほどの」医療
夜間休日における1次,2次医療についてです。1次,2次医療とは、比較的軽症で自分で医療機関にかかることが出来る患者さんを相手にした医療のことです。3次医療になると本当の意味で急を要する医療になります。
私は精神科医ですが、時折一般の(1次,2次の)救急業務を夜間休日に手伝わされる事があります。たまにではありますが、総合病院に勤めていると当番が回ってくるのでしかたがないのです。救急救命の先生たちが救急車で来た症例をバンバンこなしている横で、歩いてきた症例をおっかなびっくり拝見したりしています。熱が出ている、頭が痛い、などの症状があって患者さんたちが病院にやってくるのを、精神科医の私が拝見するのです。私も不安ですが、患者さんも不安だと思います(苦笑)。
この仕事の時に私が考えているのは「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」ということだけです。「ちゃんと病気を診断しよう」とか「ちゃんとそれぞれの患者さんにオーダーメイドされた検査をしよう」とかにはそれほどこだわりません。もちろんそれらをすることが上記の目的に近づく場合もありますが、少なくともそれにこだわることはありません。治療も「風邪だから抗生剤は出さない」などとかたくなな「正しい」医療行動をしようとはせず、患者さんからの希望があれば風邪だと自分が思っていても抗生剤も出してしまうこともあります。説明して啓蒙しようとしてお互い嫌な気分になるなら、素直に患者さんに従ってしまって問題化するリスクを低くします。そして「悪化するようならまたきてください。できれば昼間に来てください」と言って帰宅してもらいます。
一般の方にこれを言うと気分を害する方がいます。どうも私の考えは理解できないようで、彼らは「常にフルパワー」「いつでもMAXの良質な医療」を求めているようです。彼らにとって医療は24時間どこでもいつでも完全なものでなければならないようで、夜間休日でもほどほどですましてはいけないと主張するのです。
私は夜間休日の一次、二次の救急外来では上記の私のような対応が適正な医療の提供だと考えています。夜間休日は病院は「お休みモード」です。普段のMAXのちからが出せる状態ではありません。病院によってどこまで夜間休日のパフォーマンスを下げるかは異なりますが、夜間休日の方が平日昼間より働いている職員が多いという病院はさすがに存在しないはずです。よくあるパターンは:夜間休日は院内で出来る採血検査は出来る(ただし技師当直がなく医者が自分でやらないといけないこともある)、レントゲンとCTは動くけどMRIは夜は無理、当直している医者は一人でバックアップとして電話していい人が一人決まっている。というような感じです。僕が勤めているのは大学病院ですが、それでも精神科医が休日夜間の一般外来に駆りだされているのです。三次救急はそもそも救急搬送された重傷者しか来ないので話は別ですが。
この夜間休日の状態で来院された患者さんはそれ相応の医療しか受けられないことになります。また、この夜間休日の状態では医者はそれ相応の医療しか出来ないことになります。この中では、私は「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」という医療態度は十分適切な医療の提供になると思っています。
医療はサービス業なのか
これは延々と議論になっているテーマです。確かになにかのサービスを顧客に提供するという意味ではサービス業かもしれません。では、サービス業だから「お客様は神様」で徹底的に個々の患者さんに目一杯の満足を与える「サービス」を行うべきでしょうか。
僕は違うと思います。医療は常にどの国においても公共の施策と密接に結びついています。日本では保険でやる以上、受診料などの患者さんが医療で払うお金は政府に決められています。これは価格が公定で決められている水道や電気と同じことです。広告も規制されています。つまり、医療は少なくともレストランや他の一般のサービス業とは形態が異なるのです。医療というのは公共の福祉という観点から政府が決めた原則に従って行われるサービスなのです。政府がに決められた医療費や制度を考えると、そのような医療は政府からも求められていないように思います。夜間救急での1次2次の患者さんに対しては「病名までははっきりわからないけど、あなたの状態は死ぬ可能性やものすごく悪くなる可能性がなさそう」という医者からの情報の提供は十分に要求に応えるサービスだと僕は思います。
適正な医療の提供と「サービス」との間で
僕は夜間休日に来院する1次2次救急では「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」という医療態度を夜間休日にはとっていて、これが出来る範囲で適切な医療の提供であって公共の福祉の観点から求められているサービスの提供を十分に満たしていると考えているというお話をしました。
ただ、もちろん患者さんは困って来院しているわけですからなんとかそれに応えたいというのも医療者として素直に思うところです。きちんとした診断と治療は最も重要です。できれば笑顔で接したいですし、なるべく早く良くなってもらうよう工夫をしたいと思います。苦痛は少ないほうがいいし、待ち時間も少ないほうが良いでしょう。僕も夜間休日でもそういった医療が提供できるようにと考えた時期もありましたが、今は上記の姿勢が適切な医療であると考えるようになりました。それ以上は「サービス」であると考え、自分が余裕があるときのみにやるよう努力しています。もっとたくさんの「サービス」を安定的に夜間休日に行えるようにできれば良いのですが。
しかし、僕が設定する適切な医療以上の「サービス」を行うかどうかは費用対効果の問題や医療に何を求めるかという思想の問題などにも絡んでくるので僕の個人的な行動だけで変えることができるわけではなさそうだなとも思います。常に24時間完璧な医療ができるような制度があれば良いのですが。
「専門家」は言ったもの勝ち
医療業界での話です
どういう人が「専門家」と呼ばれるようになるのかが疑問でした。
業界と一般の知識ギャップ
僕が知っているクリニックの院長は、勝手に専門家を名乗るのが得意です。この辺の嗅覚はすごくすぐれていて、あまり「専門家」がおらずはっきりとしたエビデンスのないジャンルで勝手に専門家を名乗りテレビ等の取材を受けてしまいます。別にそれについて研究をしたりすごく勉強したわけでもないのに。教科書的なことを簡単に説明して、取材を受けています。そうするとそういった微妙なジャンルの患者さんが来院します。充分な治療はできません。だって充分なエビデンスのある治療法のないジャンルだから。でも、患者さんは来るのでクリニックはとても儲かっているようです。そしてそういう微妙なジャンルは生死にはかかわらないので充分な治療でなくても大きな問題にもなりません。
医療業界は専門家の集団で出来た世界です。ほとんどの医療者、特に医者はそれぞれが自らが携わる医療についてかなり突っ込んだ知識を持っています。当然医者全員が患者さんより知識を持っていて、情報格差で利益を得ています。その情報格差は非常に大きく、上に書いた院長程度の知識でも一般相手であれば上っ面の知識だとバレることもなく偉そうなことが言えてしまいます。
しかし、その医者の中でも特に「専門家」と呼ばれる一群があって、彼らは学会やメディアで様々な影響力や発言力があったりします。彼らそれぞれは基本的には細分化されたジャンルの専門家と名乗っていることが多いです。
しかし意外ですが、彼らの講演を聞いて、彼らの著作を読んで、僕が感銘を受けることは少ないです。むしろ彼らの知識や技術と僕の知識や技術との差の小ささに驚くことが多いです。ずっとなぜか不思議に思っていたのですが、バイト先の院長をみていて徐々にわかってきました。
業界内での情報格差の少なさ
医療では個々の構成員の知識水準が非常に平準化されています。医療業界は専門家の集団で出来た世界であるとともに、非常に平準化された世界でもあると思います。
医療に携わる人間は、かなりの割合の人が十分な水準の知識を持っています。また、多くの医療人が共有している知識はエビデンスが明確なものであったり、実地の医療で有用なものであったりします。
逆にかなりの割合の人が知らないあるいは自信のない知識というのは、実地の医療においてほとんど出番のない知識であったりします。あるいはエビデンスが不明確であったり、実地の医療で出番が少ないものであったりします。
結果、役に立つ、よく使う、必要な知識については業界内では差がついていないということになります。そしてそれ以上のことを知っていてもアウトカムにはそれほど結びつかない様に思います。
専門家達は前に立って話すときには当然聴衆の役に立つ話をしたいと思うでしょう。また、しっかりエビデンスのある確実な話をしたいと思うでしょう。しかし、そういう話をすると医療業界では聴衆の知識と大きく乖離のある話ができないということになってしまいます。
「私は専門家だ」と言ってしまった人勝ちだと思った。
結局「私はこの分野の専門家である」と宣言してしまった人の勝ちなのだと思いました。そうすればその人が専門家ということになってしまいます。業界内で知識が平準化されて差がつかず、業界外とは知識格差が大きい医療という分野ではそれはとても効果的です。前述の院長などはそうしています。
もちろん、業界内部で批判を受けます。面の皮は厚くないとできません。僕はこつこつと実績や知識を積み重ねることで評価を受け、そういった人が専門家だと自然に認められ、表に出ていくのだと思っていましたし、そう行動してきました。でも、そうでもないようです。知識格差の少ない専門家集団内で突出した知識を有していなくても、行動力や声の大きさで「専門家」と認められてしまうのです。「私は専門家だ」と言ってしまえばそれで良いのです。主張するのはとても大事です。
僕はこれまでそれに気づきませんでした。これからは少しずつ行動を変えていきたいと思います。
*1:Rupa Panda
ミニマリストは「わかって」ないと無理
時折ミニマリストと呼ばれる人たちの動向を耳にします。
がらんどうの部屋に質のいいシンプルな服が数着のみ。実は憧れたりもします。でも、ミニマリスト的な生き方はなかなか容易ではありません。ミニマリストな生き方は、「これは要らない」と捨てていく生活であるとともに、「これは残すべき、良い物である」と物を選び取っていく生活でもあります。
僕はとても物が好きです。一時は服も大量に買いましたし、GoProのようなガジェットも大好きです。自転車は8台所有していたことがあります。CDは全部リッピングして中古屋に売りましたが、2000枚くらいになってました。本も自炊して捨てましたが、1000冊くらいになりました。アンティークの家具集めにはまった時期も長く、家は倉庫のような感じでものにあふれていました。
本やCDのように情報として残しつつ整理出来るものは整理しましたし、服には徐々に興味が薄れて必要で質の良いもののみを買うようになり、どういう服がどういうTPOで必要とされるのか理解し、年齢も重ねて少ない数で済むようになりました。自転車はどういう自転車が出番が多くて、どういう自転車が自分が好きかが理解できたので、8台は必要ではなくなりました。アンティーク家具はまた買い始めてしまいそうですが、、、
こうして、昔に比べると物が減って少しミニマリスト的になってきたような気もします。これ以上さらにミニマリスト的にはさすがになれないとは思いますが。
ミニマリストは良いものを「わかって」いる
僕が所有する物が以前に比べて減ったのは、「なにが必要か」を理解出来たからです。一旦ものに溢れ、欲しいものをたくさん買って無駄にしたからこそ、必要な物が理解でき、現在物が以前より多くない生活が送れているのです。決してミニマリストを目指して物を減らそうとしたわけではありません。
様になったミニマリストになるには一旦は物にあふれた生活を送らないと無理なのではないでしょうか。だって、どの物が自分に合っているのか、どの物が上質なのか、どの物が必要なのかを知らないといけないのですから。そして必要でない物を捨て、上質で良い物、自分にあった物を選びとっていってミニマリストになるのだと思います。
そういった経験をせずにミニマリストを目指すと、ただの貧乏くさく豊かさのない不便な生活なだけになってしまうのではないでしょうか。
そう考えるとミニマリストさんたちは本当はものすごくモノが好きでモノについて徹底的に考え抜いた、どのモノがいいものか「わかって」いる人たちなのかもしれませんね。
*1:Nika Gedevanishvili
ボストン周辺のマウンテンバイクトレイル
ボストン周辺のマウンテンバイクトレイル
留学中に経験したアメリカでのマウンテンバイクトレイル事情です。リアルなアメリカのマウンテンバイクの状況を体験された方は多くないのではないでしょうか。本当に貴重な体験でした。
ボストン周辺には無数のマウンテンバイクトレイルがあり、MTB生活は非常に充実していました。アメリカの他の地域でマウンテンバイクを乗ったことはないので他の地域の事情は分からないのですが、僕にとってはボストン周辺のマウンテンバイクトレイルは十分な質と量と多様性があり、本当に楽しめました。理想的だったと言ってもいいかもしれません。(冬以外はですが)
トレイルの基本的な情報
ボストン周辺には湖が多くあるのですが、多くの州立公園や森林保護区はそれぞれの湖の周辺を囲むように設定されており、中は林になっています。基本的にマウンテンバイクトレイルはそのそれぞれの州立公園や森林保護区に作られています。そして、その入口周辺に開けた場所があり駐車場になっていてトレイルヘッドと呼ばれています。そこには自由に車を停めてかまいません。Fire roadと呼ばれるダブルトラック程度の砂利道が公園の中には整備されていて、そこを散歩したりすることが出来るのですが、多くの場合マウンテンバイクトレイルは、そのFire roadから林の中に入っていってまたFire roadに出てくるような感じで延々と作られています。トレイルのほとんどはいわゆるテクニカルトレイルでマウンテンバイクを楽しむためのみに切り開かれたものです。そのため、わざと岩の上を通らされたり、コーナーが連続していたり、ドロップオフがあったりとチャレンジングに作られています。一部ランやウォークと共有されているトレイルもありますが、ほとんどのトレイルで目一杯MTBを楽しむことができます。時折迷う場合もありますが、それほど分岐はなく、Fire roadに時々出るので迷って帰れなくなることはそれ程(全くではない)ありません。日本のような急峻な山はないので、延々と登ったり一気に下ったりということはありません。ちょっと登っては下ってを繰り返すので、バランスよく楽しめます。トレイルは本当に良くできています。ドロップオフ等は殆どは見通しの良い所に作られていて、突然落ちて怪我をするということはまずありません。また、エスケープも適当に作られているので、自分が無理しなければ大きな怪我をする恐怖はありませんでした。
私はCharge bikesの26インチハードテールduster とSanta cruzの26インチフルサスNomad を持っていましたが、dusterでほとんどのトレイルで丁度良いと感じました。出会う人たちも29インチや27.5インチのハードテールトレイルバイクが多く、フルサスバイクは少数派でした。フルサストレイルバイクも良いと思いますがAll mountain系はボストン周辺ではちょっと過剰かなと思います。VIETNUMやHighland Mountain Bike Park | Northfield, NHに行くのであればフルサスAll mountain車以上が必要になるでしょうが。
New England地方は西海岸と比べると雨が多いのですが、それでも日本と比べて乾燥しており土質も水はけがよく雨が降ってもすぐにトレイルに乗り出せます。午前雨が降っても、やんで2時間待って午後になればなんの問題もなく、トレイルにも轍はできませんでした。日本では一部トレイル管理をしている人たちでトレイルの保護にこうるさい人たちが居ますが、ボストンではブレーキや雨天後のライドでどうこうと言う人はいませんでした。
(おそらく)すべてのトレイルは3月中は自転車での進入は禁止となっているようです。これは冬季に土が凍り、それが溶け出すのが3月であるため、3月は多くのトレイルがぬかるんでいるという理由だと思います。
NEMBA
NEMBA | New England Mountain Bike Association
Massachusetts州を含めたNew England地方はNEMBA(new england mountain bike association)というマウンテンバイク協会がMTB活動やトレイルを管理しています。
管理活動は非常に活発で、ボランティアベースで毎週活動しています。トレイルに倒木があっても翌週にはたいてい片付けられていました。また、公園内に作られている歩行者用の小さな橋の殆どにはNEMBAマークが掘られており、マウンテンバイクトレイル以外の管理保全にも積極的に関わっていることがうかがわれました。
10ドルか20ドルくらいで入会でき、入会するとsingle track magazineという機関紙が送られてきます。内容は支部の活動報告程度ですが、、、会社が近くにあるので、mootsがメインでサポートしてくれているようでした。
後に述べるVietnumというトレイルでは、公園等へのトレイル作成にとどまらず土地を募金を集めてNEMBAで購入し、そこにジャンプやドロップオフだらけのチャレンジングなトレイルを作るという活動まで行っています。
このNEMBA内のページをみるとRideできる場所のリストがあります。
サイトをのぞいてみるととわかりますが、たくさんありすぎてどこに行けば良いかわかりません、、、はじめは土地勘も無くどのトレイルにどのように行けばよいか迷うばかりでした。
調べてみるとblue hills、Lynn woods、Middle sex Fells reservationあたりが評判が良いようです。
私ははじめはFellsとCutler parkに行ってみました。これらは評判がよいだけでなく、ボストンの公共交通機関であるMBTAのメトロの終点駅から自走できる範囲にあるので車を所有していなくても楽しむことができるという理由でした。
Fellsはred lineのDavisから20分程度、Cutlerはorange line のForest hillから30分程度の自走でした。
Blue hillsもred lineのBrain treeから、Lynn woodsはorange lineのoak groveから自走できそうではありましたが結局行きませんでした。
その後は車を購入したので、いろいろと行ってみて楽しみました。また、研究室のBossの息子さんがmountain bikerで、彼がいろいろと連れて行ってくれたのがとても大きかったです。彼は自転車屋に勤めており、最新のトレイル事情をよく知っていました。
以下が行ってみたトレイル達です。☆で評価してみました。今後それぞれレビューできればと思っています。
Vietnum ☆☆☆
Russell Mill ☆☆☆
Lowell-Dracut-Tyngsboro State Forest ☆☆☆
Middlesex Fells Reservation ☆☆
いつかはmountain bike のメッカと言われるユタ州にも行ってみたいですが、いつになることでしょうか、、、
いつかどなたかがこの情報をもとにMAのトレイルに挑戦していってくれると本当に嬉しいです。
できるからこそ。できないからこそ。
できるからこそ複雑になって運営が非効率的になる
久々に渋谷に出て、Boston時代にお世話になったBossにクリスマスプレゼントをヒカリエで購入しました。
渋谷駅は今工事中。少しずつ工事を進めて、JRの駅も東横線の駅も東京メトロの駅も近くなって機能的になるらしい。今もすごくわけのわからない形で工事が進んでいます。どう歩けばいいのかわからない。でも、今でも渋谷駅は機能している。
代官山渋谷間の工事も本当に驚きました。1日も運行を止めないとかクレイジーすぎます。
こんなの絶対アメリカじゃ無理だと思いました。土地が広いとか別の理由もあるとは思いますが、アメリカなら絶対に一時のめちゃくちゃな不便さには目をつぶってテキトーなところに仮設駅を作って運営すると思います。なんなら間にバス運送とか挟んで運営したりすると思います。そして豪快にドラスティックに一気に新しい駅を作り上げると思います。
アメリカ的やり方であれば、例えば、渋谷と代官山の間に仮設駅を作って、そこで東横線は運営する。山手線渋谷駅から仮設駅まではバスで運送する。その間に一番効率的な場所に簡単に駅を作ってしまい、出来てから複合的な渋谷駅を運営する。というような形にすると思います。「普段の便利さ」を数週程度なら目をつぶって、こういう運営をすると思います。
日本人の優秀さと街の難解さ
日本人は明らかに優秀です。留学中はそう思うことが多かったです。丁寧で器用で複数の仕事を並行して出来、たいていのことはやってのけます。末端の規律の高さは信じられない。
個々のアメリカ人はやはり不器用だし思考も大雑把でした。いい加減でやり遂げるのに時間がかかり、多くのことをこなすことができません。末端のいい加減さは信じられない。
しかし、全体の組織としてはアメリカは見事に機能しています。日本が機能していないとは思わないけど、少なくともアメリカは個々の人物から受けるイマイチな印象からかなりかけ離れて全体の組織がうまく回っています。
これは街から受ける印象も同じです。日本は暮らしやすい。特に東京はいたるところに地下鉄が張り巡らされ、コンビニに溢れ、安全で清潔で明るいです。アメリカではどこに行くにも車で自分で動くなら良いが、そうでなければ不便であり、暗く薄汚れています。じゃあ、街としてアメリカの都市と日本の都市の全体の経済活動などに差があるかというと特に差はありません。街全体の活動としては個々の不便さなどからかけ離れてアメリカの街は機能しています。
日本の街は複雑な構造や運営を個々の日本人がこなせてしまうからこそ、街の構造がどんどん複雑になってマクロで見るとごちゃごちゃになってしまい、非効率になっていってしまうのだと思います。上記の渋谷駅の現状はまさにその好例だと思います。工事中でない駅でも新宿駅や梅田駅の複雑さはよく話題にのぼりますが、複雑な街・駅を運営はできていますが、全体としてうまくいっているかというと、乗り換えが複雑になって迷ったりと一概にそうとも言えないところもあるかもしれません。さらに、JR渋谷駅が乗車人数ランキングで5位に転落! 渋谷駅の収入は大丈夫なのか | All About News Dig(オールアバウト ニュースディグ)のようの記事もあります。個々の利便性を高めるため複雑な運用をして、結果としてアウトカムが悪くなっている可能性もあるのです。
できるからやるを離れて
アメリカの街は日本の街より不便です。公共交通機関は日本と比べて単純なものとなっており、移動の選択肢は少ないです。でも、マクロで見ると単純だからこそ効率的になっています。迷うこともありません。個々のアメリカ人が大雑把で複雑な構造や運営をこなせないからこそ、街が単純で扱いやすい構造になっています。だから大きな動線の変更などがしやすく機動的に運営することができます。
街や駅の構造で話をしてきましたが、これは組織の運営でも言えることだと思います。日本人は時々立ち止まって、個々の最適化が全体の最適化につながっているか考えるようにする必要があると思います。
ちなみに今回のブログトップの画像は僕が留学中に話題になった画像です。ニューヨークとボストンの道を比べると、ニューヨークの方が碁盤の目になっていてわかりやすい。なぜボストンはこんなめちゃくちゃな道になっているんだ。やってられない。という笑い話です。日本の道に比べるとボストンなんて可愛いものですよね(笑)
みなさんはどうお考えでしょうか
精神障害者が犯罪を起こしても無罪?
こんな事件が話題になってました。
これまでも精神障害者が事件を起こし無罪減刑された時には「キ○ガイ無罪」などとインターネット上では揶揄されており、司法の判断と一般の感覚に大きなズレがあるようでいち精神科医として心を痛めていました。私はこの事件においては統合失調症という診断及び暴行に及んだ理由がニュースの通りであるならば議論の余地なく無罪と考えます。
これまでも有名な事件としては古くはピアノ騒音殺人事件 - Wikipediaから精神疾患と責任能力については議論になっており、なかなか一般の理解が得られていないようです。
最近ではこういったものもありました。
6人殺害のペルー人意識不明!統合失調症で錯乱状態の犯行か? | てげろぐ
この辺りは様々な階層、質での議論がありなかなか統一した議論が難しいのですが幾つかの論点をまとめてみたいと思います。
1.すべての精神障害者が事件において無責任となるわけではない
精神科もさまざまな流派やさまざまな考えを持った医師の集合体なので、すべての精神科医師が同意するという議論はありません。かつては不可知論・可知論(不可知論と可知論|はちみつ)などを前提として様々な議論が行われてきました。
その際の論点は概ね以下にわけられます(薬物・アルコールは複雑になるので省いています)
1「統合失調症の症状に左右されて犯罪を犯した場合に責任能力があるか」
2「統合失調症ではあるが症状とは関係なく犯罪を犯した場合に責任能力があるか」
3「躁うつ病の症状に左右されて犯罪を犯した場合に責任能力があるか」
4「躁うつ病ではあるが症状とは関係なく犯罪を犯した場合に責任能力があるか」
5「統合失調症、躁うつ病以外の疾患だが犯罪を犯した場合に責任能力があるか」
これまで偉い人たちが交わしてきた議論はぶっ飛ばしますが、、、
現在の精神科医一般の意見は総じて「1は間違いなく責任能力無し、2は概ね責任能力無し、その他は責任能力あり」とまとまっていると思います。(もちろん今でも極端な論に立つ医師はいますが)
ですので、今回の裁判でも
「当時は幻覚や妄想の影響で善悪の判断ができない心神喪失の状態だったとの疑いが残る」
と判決では統合失調症の症状で犯行を行ったことが否定出来ないことを指摘しているのです。
つまり、すべての精神障害者が犯罪において無責任となるわけではないのです。無責任になるのはおおむね統合失調症の人が統合失調症の症状に左右されて犯罪を起こした時だけです。病気の調子がいい時に統合失調症の患者さんが悪意にかられて起こした犯罪では責任能力あるとされ罰せられます! 安心できましたか?、、、、、、それでも納得出来ないという人がいるのはわかっています。全部じゃなかろうがとにかく精神障害者が無責任になるのが納得いかん!という人もいると思います。その辺を議論が複雑にならないように統合失調症の方が犯罪を起こした場合に限って考えてみます。
2.むしろ統合失調症の人が幻覚妄想状態で起こしたことを責任能力あると思うほうがおかしい
と僕は思います。精神科医として幻覚妄想状態になった統合失調症の方をみる機会がありますが、そのときには「ああ、これは判断能力が保たれている人と同じに扱うのは無理だな」と素直に思います。そう感じるのが自然な人の心だと思います。
その証拠に、日本で初めて文章化された法律である大宝律令(養老律令)にも癲狂(精神疾患)の罪を減じるという項目が記載されていたといいます。責任能力 - Wikipedia
こんな昔のもので、難しい法理論とかが発達しておらず精神医学なんてものもない時代でもそういった項目があるということは、みんな「うーん、あれは罰せられんよな」とひしひしと感じていたのだと思います。
では、なぜ昔の人たちがそうひしひし感じていたのを今の一般の方たちが感じていないのでしょうか?
それは、「今の一般の人達が統合失調症が悪化した状態の人を見ていない」からだと思います。昔は統合失調症の治療などなく、患者は放置されるだけでした。もしかすると河原などに集められていて近くに行くと遠目で見ることができたかもしれません。また、良いことではないですが、そういった幻覚妄想状態の方とケンカ等になった人が身近にいたことでしょう。そうすると幻覚妄想状態の統合失調症患者がどのように一般の健常人と異なるのかということを実感することができていたのだと思います。しかし、現在は統合失調症については不完全ですが治療が行われるようになり、また悪化したら入院できる体制にあるなど管理も進歩しています。その中で現代においては精神医療に関わる人間以外、幻覚妄想状態にある統合失調症患者を身近にみることがなくなっていると思われます。そのため、統合失調症の幻覚妄想状態がどのように一般の健常人と異なるかを実感できず、罰せられないのを疑問に感じてしまうのだと思います。
3.統合失調症の症状で犯罪を犯した人を罰することに意味があるのか
刑法にて刑罰があるのは犯人の再犯の防止および他者の同様の犯罪の防止です。刑罰 - Wikipedia
統合失調症の人が症状に左右されて犯罪を犯しそれを罰したとしても再犯の防止にはなりません。統合失調症の症状の一つは「妄想」と呼ばれ統合失調症の方からするとそれは完全な事実として認識されます。今回の事件でも
一貫して「スマホから飛んでくる電磁波が体に刺さり激痛が走った。優先席近くでは電源を切るのがマナーだし、痛みに耐えられず注意したが、無視されたと感じ怒りが爆発した」
と述べているとのことです。この人を罰してもこの人は「事実なのに周りは全然わかってくれず罰までくらった。周りはおかしい」と考えるだけです。再犯防止になりません。
また、他者の同様の犯罪の防止にもなりません。他の人が今回の事件をみて、「同じことしたら自分に得になる。真似しよう」とは思わないからです。電車で人を殴って利益になることはありません。
4.統合失調症の人が症状に左右されて起こした犯罪は統合失調症の人が起こした犯罪ではない
幻覚妄想状態で何かを起こした場合、その行為主体は人ではないのです。統合失調症の人が症状に左右されて起こしたことは、例えば糖尿病の人が低血糖で倒れて人を押し倒して怪我をさせてしまったり、運転中に脳出血になって意識がなくなって人を轢いてしまったり、ということと同じことです。これらは病気やその症状が事件を起こしたのであって病気にかかった人が起こしたわけではありません。統合失調症の幻覚妄想が悪くなるとその人のコントロールは全く効かなくなることがあります。その下で起こした犯罪はその人の罪ではありません。もちろん、個々の事件で被告がどれだけ病気に支配されていたかを裁判で議論するのはとても必要なことです。今回の裁判でも
「当時は幻覚や妄想の影響で善悪の判断ができない心神喪失の状態だったとの疑いが残る」
と心神喪失の可能性を認定しています。
まだまだ議論はできますが、精神障害者(統合失調症の人)が犯罪を起こした場合に無責任となる理由は大雑把に上記です。僕は上記の議論が充分説得的だと感じ、幻覚妄想状態の統合失調症の人が起こした犯罪は無責任とされるべきと考えています。また多くの精神科医がそれと近い意見であると感じています。
ただ、異なる意見の方もいるのも理解はしています。
僕が思いつく精神障害者有責論の論点は以下ですが、それぞれ僕の反論を書いてみます。
1. 悪いことをした人は精神障害者であろうとも同じように裁かれるべきだ。因果応報はどうなるんだ→健常犯罪者の情状酌量の必要性から議論してその必要性が否定されたら言ってください
2. 被害者の救済や心情はどうなるんだ→刑罰は被害者の救済等のためにあるのではありません。ただ、これは確かに重要な問題なので刑罰と切り離して議論してください。
3. 社会の安定のために危険な人は病気だろうが社会に出すな→究極的には優性学や行き過ぎた管理社会につながるような危険な考えだと思います。疾患に罹患した人を早期に管理し治療をするのはとても重要な事です。ただ、それが社会の安全のためと強調されすぎると行き過ぎた隔離政策に繋がると思います。また、医療観察法という法律が制定され制度面も少しずつ改善されてきています。
みなさんはどうお考えでしょうか
2016年6月30日追記
先日釧路でいたましい事件がありました。
男が釧路で4人を無差別に刺傷したという事件です。事件後男が統合失調症で治療を受けていたとの報道がありました。
「僕の人生を終わらせたくて、殺人が一番死刑になると思って、人を刺した」と供述。統合失調症を患って精神科に通い、薬を飲んでいたことも分かっている。
とのことです。
報道の通りであればこれは統合失調症患者が起こした犯罪ではありますが、統合失調症患者が統合失調症の症状に左右されて起こした犯罪ではありません。
後日報を待ちたいと思います。