cyciatrist 自転車と精神科医療とあとなんか

ボストン留学帰りの精神科医。自転車好き。

暴力の行使を認められているのは国家のみであるが、、、

このところ、その行動が動画で撮影されてインターネットで公開されたこともあって、ジャズトランペッターの日野皓正氏がステージにおいて暴走したという少年ドラマーをビンタした行為が議論になっている。

http://www.hochi.co.jp/entertainment/20170902-OHT1T50176.html

僕は明確に教育目的の体罰に反対の立場で、はじめに今回の日野氏の行動の動画をみて率直におぞましいと思った。しかし、その後の情報を知るにつれて、これについては肯定すべきか否定すべきか非常に複雑な考えが頭を支配した。

僕はこれまで教育目的の体罰について深く考えたことはなかったが、自分自身が小学校時代に理不尽な体罰教師を恨んだ記憶をもとに体罰教師に対して反対の立場をとるようになっていた。しかし、教育現場の崩壊の報道などをみるにつけて、ときおり個々の事象について「これは教師が暴力をふるってしまってもやむを得なかった」と思うこともあって、なかなか矛盾した意見となってしまっていて、しかも今回までそれに気づかなかった。インターネット上の意見でも単純な暴力教師のニュースでは概ね反対の意見が多数を占めるが、今回の日野氏の事象のように賛否両論渦巻く事があるように思う。

体罰で人の心が正しい方向に向かうことは少ない。また、多くの場合の体罰教師は良好な精神の持ち主ではない。良好な精神の持ち主の教師や親が良い意図のもと暴力を使用して、しかも暴力を振るわれた側がそれに良い反応を示すということもわずかにはあるかもしれない。しかし、それは極小の事象として私秘的に行われるべきであり、「そういう趣味の人達が自分たちの中でやるもの」であって、決してそれをもとに体罰全体を肯定すべきではない。こっそりとそれが好きな人たちだけでやってくれ。

しかし、よくある教育崩壊のニュースなどにおける、暴走する子に対して、「どうやってコントロールすれば良いのか。説得して、他の子に迷惑をかけている状態で、その暴走を止めてくれない。最終的にその子を暴力以外でどうすればよいのか」という疑問には体罰反対派は十分に答えていないと思う。どうやらあの暴走ドラマー少年はこれまでも繰り返し暴走をする傾向にあった少年のようでそれを自制しながら育てていくことを日野氏が関与していたようであり、日野氏のあの場面では、下記のまとめにあるようにドラマー少年が長時間にわたって暴走したようだ。

日野皓正(ひのてるまさ)氏の往復ビンタ事件を実際に見ていた感想 - Togetterまとめ

ただの大人のジャズセッション時の暴走であればまだよい。その暴走ミュージシャンはその後一緒に演奏してくれる人がいなくなっていくだけだ。しかし、その後100人程度の少年少女が演奏を待っている状態で独善的に人に譲らず演奏を続けた場合は何らかの方法でコントロールしなければならない。そもそもこういった演奏する少年少女に対する教育の意味をもつ演奏会で4500円ものお金をとっているのにも疑問はあるが、それはいまは置いておいて、バンドマスターがその暴走をコントロールしようとするのは当然である。そして、その暴走をコントロールしようとする行動として日野氏の当日の行動を完全に頭から否定することは僕にはできなかった。確かに少年は声を掛けられ、スティックを取り上げられてもドラムを叩こうとしており、日野氏のあの行動がなければさらに止まらず暴走を続けていた可能性が十分にあると思った。そして、それはあのジャズバンドという集団には許容されるものではなさそうである。

僕の意見はこうである。今回、日野氏が後日語ったインタビューで自らが語っているように、あのビンタが暴走少年当人に対する教育を目的としたものであるなら、日野氏の行為は全く肯定できない。しかし、あのジャズバンドという集団を守るために暴走をコントールする目的をもってなされたものであれば心情的には一部是認される可能性があるが、公に是認することはできない。

集団は育っていくと、その集団を乱す存在が内外に現れる。その存在と戦うには最終的には暴力が必要とされることがある。集団の最終形である国家にはその暴力権が賦与されていて、内には警察力を、外には軍事力を用いることができる。これらには使用には様々な制限があるが国家のみに使用が許された暴力である。逆に国家以外に暴力権を賦与された集団はない。つまり、集団が国家に昇華した時点で暴力権を持つことになる。しかし、これは国家以外の集団で暴力権を必要としないという意味ではない。どの集団でもその継続や利益を脅かす存在は現れ得る。なので、その場合は個々の集団はその暴力権を国家に附託しており、かわりに国家にその暴力を行使してもらう。国家以外による暴力はすべて認められない。

、、、という建前がある。が、個々の事象についてすべて警察やら国家やらと相談するわけにも行かない。学級崩壊やバンド崩壊はその場で起こっていて即座の介入をお願いするのは不可能だし、崩壊を起こしている暴走者も明確に法律違反などを犯しているわけでもない。しかし、明確に集団には悪影響を及ぼしていて暴力以外の方法で止められない。そういう状況は多数ある。この場合に集団を守るために振るった暴力は公に問われれば是認されない。しかし、それ以外でどうやって集団を守るのかと問われると答えはない。そのため、心情的にこの際の暴力を是認する人たちが出現する。どうやら僕も時にそういった意見を持つ人間のようである。

ただし、その心情的な是認は国家とは異なりナニモノにも保証されておらず、今後もその是認を肯定しない人達によって日野氏は攻撃されるであろうし、人格を否定するような発言をする輩もでるであろう。そしてそれに対して日野氏は個人として、そしてあのジャズバンドを後ろ盾として戦うしか無い。日野氏はあの暴走ドラマー少年を教育しようとしたとともにあのジャズバンドという集団を守ろうとしており、その守られたジャズバンドという集団がどのように日野氏に対して感じたのかというのは非常に重要であろう。感謝するのか、そこまでしなくてよかったと思うのか、、、

繰り返すが、暴力は公にはどんな形であれ是認されない。心情的に是認される場合があるというのみである。しかし、ここまで書いて気づくことは、「集団を守るために行われる暴力は、集団によって支持される範囲であっては心情的に是認される」という結論は、「個人を教育するために行われる暴力は、その個人によって支持される範囲であっては心情的に是認される」という意見と全く同じ構造を持っているということである。これに僕は戦慄する。僕は個人の教育を目的とした体罰には否定的な意見であり私秘的に行うべきであると言ったが、同じことを集団を守るための暴力に対して言う人がいるであろうということだ。

個人の支持によっては暴力は是認されないが、集団の支持になると徐々に心情的に是認されるようになり、集団がある一点を超えて国家に昇華すると暴力は公に是認されるようになる。というのは自然なようであって個人と集団・国家の根本的な違いなどを考察する必要があるような気がして、なにか根源的な違和感と疑問も生じる。

「生きる」というのはその過程でこういった法や倫理の疑問点があらわとなっては曖昧なまま進行していきおもしろい。