cyciatrist 自転車と精神科医療とあとなんか

ボストン留学帰りの精神科医。自転車好き。

アメリカでの「ケーキ」の食べ方


Chocolate Carrot Cake / Chocolate-Dessert-Recipes.com

3年間の留学生活から日本に帰ってきて美味しいケーキをときどき楽しんでいます。

先日は妻の誕生日で、近所の有名なケーキ屋さんで4号のちっちゃなケーキを買ってきて美味しく食べました。日本のケーキは本当に美味しい。しっとりとしていて、スポンジやフルーツ、クリームもフレッシュで、すごく複雑な味がします。それでふと思い出したのですが、アメリカにいたときはもっとケーキを食べる機会がたくさんあったように思いました。なにかにつけてアメリカで同僚に誘われて、職場のカフェテリアでケーキを食べることが多かった、、、それは字面だけみると素敵なように思えますが、やっぱり日本の方が良いなぁと思うような微妙な体験でした(笑)

アメリカでのケーキ体験、ケーキ自体の違いや食べ方の違いなど感じたことがあったのでまとめてみようと思います。

 

アメリカのケーキは甘い

アメリカのケーキは日本人からみると色が派手というのは良く言われてネタにされています。さすがにこんなの(アメリカ ケーキ - Google 検索)は食べられないですよね、、、ここまでカラフルなものは僕は食べなかったのですが、色よりも気になったのは味です。とにかく甘い!口に入れるとなんか頭痛がするようなそんな甘さです。甘いだけならよいのですが、味がものすごく単純なんです。どこを食べても、同じ甘さ。なんど食べても、同じ甘さ。日本の美味しいケーキ、コンビニですら買える素晴らしいケーキのような複雑で、クリームやスポンジの甘みがそれぞれ楽しめるような、そんな素敵なケーキではありません。正直美味しくなかったな、まったくもう一度食べたいという代物ではありませんでした。

やっぱり日本のものがなんでも美味しすぎるんですね。むこうで一度、すごくオーガニックな指向のつよいトルコ人の女性が、「私が自分でケーキを焼いてくるわ」と言ってくれてすごく期待したことがありました。「いままでひどいケーキばっかりだったけど、やっと美味しいケーキにありつける!」と思ったのですが、出てきたのがケーキ全体にM&M'sが埋め込まれているあまーいケーキでショックを受けました(笑)。それからは日本のケーキが美味しすぎるだけなんだと思うようにしています。

 

ケーキの食べ方

なにかイベントがあると「ケーキ」でした。同僚の誕生日、送別、そういうときにだれかがホールケーキを買ってきます。「Let's go cake」といわれて、ついていくと「ケーキ」です。カフェテリア(といっても食堂のようなものです)に集まって、ケーキを開けて、食べる。それだけです。この時に「happy birthday」を歌ったり、事前にみんなの予定を聞いて集まれる時間を打ち合わせたりはしません。これはアメリカのパーティー全体に言えることですが、「だらっとしていて気軽」なのです。さすがに夜のパーティーだとみんなの予定を合わせますが、それでもスタートがはっきりしておらず、盛り上がりも明確なものがないのです。乾杯も挨拶もなく時間もアバウトなので、「なんとなく」始まって「おしゃべり」して、「なんとなく」解散です。「ケーキ」も誕生日などあると必ず開かれるので、彼らにとって大切なイベント・習慣なのだと思うのですが、スピーチや歌などのイベントもなく始まって終了します。日本の時間厳守で乾杯から始まって一本締めで終わる歓送迎会に慣れていると拍子抜けしました。

 

良いケーキを買ってこない

これが一番不満でした。同僚だったのはみんな30代以上の良い大人です。なのに、買ってくるのは「whole foods」や「shaw's」といった大手スーパーのホールケーキなんです。僕の感覚だと、30歳くらいになると一応プレゼントになるケーキ等は、家の近くの小洒落た店とか、有名店とかのケーキを選び、「どこどこで見かけて美味しそうだった」だの「こういう特別なケーキで」とかそういうストーリーがあるものであるべきだと思っていました。でも、アメリカでは30代の大人が大手スーパーでケーキを買ってきて、「shaw's」のは意外にうまい、などと品評するのです(whole foodsがヘルシーで高価格路線で、shaw'sは低価格路線のスーパーです)。このイケてなさにはなじめませんでした。これは僕のいたボストンでだけなのかもしれませんが、アメリカでは個人経営の美味しいストーリーのあるケーキ屋が見つけにくいのかもしれません。実際ボストンではそのようなお店はまったく見ませんでした。

 

ケーキは祝われる人がとり分ける

これが一番興味深いことでした。日本の誕生日だと、祝われる人は基本なにもせず、一番に取り分けてもらって、happy birthdayを歌ってもらって、ありがとうと言って、食べる。だとおもうのですが、アメリカでは逆なのです。誰かが買ってきたケーキがボンと置かれると、「さて!」という感じでその日に誕生日で祝われる人が立って、切り分けて、みんなに取り分けてあげて、みんなに行き渡ったら食べる。というふうなのです。同僚にどうしてなのか聞いてみたのですが、「さあ?物心ついた頃からこうだよ?」という返事だったので、アメリカの慣習なのだと思います。

 

アメリカでの「ケーキ」体験はすごく素敵なものではありませんでしたが、こういう体験からも文化の違いが実感できて楽しかったです。

仕事をちょっと1時間くらい抜けて気軽に「ケーキ」とか良いですよね!日本でもそういう習慣をつくりたいなぁ

医者の力は患者さんが引き出す

ibaibabaibai-h.hatenablog.com

ibaibabaibai-h.hatenablog.com

これを読んですごく感動しました。

一過性全健忘という特殊な疾患にかかった方が自分で記録されたことですが、自分でここまで調べて、ここまで詳細にその内容を語れ分析考察できる方は他に知りません。そしてきっちりとゴールデンタイムに画像を取っていて、実行力もすごい。きっと研究者としても一級なのだと思います。

ちょっと心配になったのは、一過性全健忘直後にMRIを取ってT2high、DWIhighのスポット領域の出現を確認しているのだけど、その後それが消失しているのを確認したのか記載がないことですが、、、まあ症状が回復しているから良いのでしょう。

 

僕が感動したのは、ご本人も「プロジェクトXのよう」と言っていますが、その短いtime windowの中で、近親の医療関係者の直接の助けなしにきちんとMRIを適切な条件で撮像しているということです。友人のクリニックで撮像するなどではなく、一般の医療の手続きを踏んだ上できちんと難しい条件を踏まえた撮像が行われています。MRI撮像を決心した翌日に望んだ部位の望んだ条件のMRIがきちんと撮れる。これはご本人の状況を考えると本当に難しいことです。

なぜなら、撮像時点では本人の状況がまったく生死に関わる状況ではなく、症状も全く無かったからです。医療は重症度によってシステムが構築されています。「『今』検査が必要な人には『今』、あとでで良い人にはあとで」という組み分けがされ、それで運営されています。そのために緊急の枠と予約の枠が分けられており、よっぽど緊急でなければ予約の枠に回されます。

一過性全健忘の直後という、id:ibaibabaibai_hさんご本人としてはびっくりすることで医療者としても珍しく興味深いことであったとしても、生死に関わる状態や後遺症が残る状況ではない以上、緊急の人を押しのけて検査が入るのはあまり行われないと思います。もちろん、キャンセルで枠が空いたというラッキーもあったのでしょうが。

そもそも一過性全健忘の診断基準は

1. 発作中の情報が目撃者から得られる
2. 発作中、明らかな前向健忘がある
3. 意識障害はなく、健忘以外の高次脳機能障害はない
4. 発作中、手足の麻痺のような神経学的異常はない
5. てんかんの兆候はない
6. 発作は24時間以内に消失する
7. 最近の頭部打撲やてんかん発作はない

となっており、MRIの所見は全く必要とされていません。MRIは診断基準外でも充分価値のある情報となりますが、今回の事例においては逆にMRIの所見がなかったとしても一過性全健忘を否定することはできません。基本的には診断基準通り症状と状況を確認することのみで診断が行われます。ですので、一人目に診察を受けた医師はその時点で緊急にMRIを撮像できる施設に紹介せずに自費も含めた選択肢の提示をしているのだと思います。

 

医者の力は患者さんが引き出す 

僕は医療人として誇りを持っていますし、基本的に受診してくる患者さんは何かに困って来院してくるわけで 、それをなんとか助けてあげたいと思います。また、医療は当然人の生死に関わる業務で高い倫理観が求められます。なので、医者は他の業種より士気は高く、「最低限やらなければならないこと」の基準が高い業種だとは思います。しかし、医者だって人間です。常に誰にでもフルパワーの限界まで尽くすというわけにも行きません。生死に関わったり後遺症が残ったりしない状況では、「ま、こんなところで落とし所を」と考えて様子を見たりということは良くあります。そういった重大性の薄い状況で医者が精一杯を尽くすかどうかは、やはり医者が「この人を助けてあげたい」と思うかどうかなのだと思います。患者さんが緊急でもない状況でふてくされて来院されても、「ま、大丈夫ですよ、様子見て」と対応することにもなるでしょう。患者さんが協力してくれないのに、一方的に医者側が常にフルパワーで真摯に対応するというのは不可能です。しかし、真の意味で重大性がなくても、患者さんが本当に困っていたり、協力しやすい状況を作ってくれれば、医者も本来のフルパワーを発揮するのではないでしょうか。医療における患者−医者関係はどちらかがどちらかに奉仕したり犠牲になったりするような一方通行のものでは決してなく、双方向のものです。

id:ibaibabaibai_hさんの場合は、きっと受診された先でとても良いプレゼンテーションをされたのだと思います。きちんと医者の興味を引き、変な誇張や嘘が混じることなく、真摯な態度で状況を説明され、担当の先生を「協力してあげたい」という気持ちにさせたのだと思います。だからこそこうやって何人もの医療従事者がibaibabaibai_hさんに協力して、この難しい条件のMRI撮像を成し遂げたのだと思います。

興味深い疾患に、興味深い事例のご報告本当にありがとうございました。

「事務所」と「医局」


blowing in the wind / michale

今回のSMAPの騒動はご本人たちには申し訳ないですが、とても興味深く観察しました。

経緯やジャニーズ事務所の横暴さ、SMAPメンバーの心理等は様々なブログ等でも取り上げられて、いろいろな視点があってどれも面白かったです。

僕個人としては「もうすでにSMAPには名声が充分すぎるほどあるし、自分を偽ってまで事務所に残ること無いんじゃないかなぁ」と思ったのですが、そのあとハッとしました。

僕自身が今現在、医者として医局をやめる決心をしたばっかりなのですが、「医局」って「事務所」と似たような機能を持っていますよね。「医局を離れる僕」と「事務所を離れられないSMAP」という対比に気づいてしまったんです。

医局や事務所といった「組織」はどれも似たような特徴や構造を持っています。その特徴故に離れるのに困難が伴うものなんだと思います。

 

「組織」に所属するメリット

「医局」や「事務所」といった組織に所属するメリットってどういうものがあるのでしょうか。

こういった組織は人を派遣する機能を持っています。強い医局や事務所は良い職場をおさえています。ですので、強い医局や事務所に所属すると良い職場に派遣してもらえます。これが一番大きなメリットでしょう。「良い職場」とは給料がよく、やりがいがあって、職場環境が良く、あわよくば名声も得られるような職場です。また、組織が職場をあてがってくれるため、そういった職場を自分で探す必要が無いというメリットがあります。また、組織のバックがあるので、自分の実力以上の職場につくことも出来るかもしれません。

「組織」に所属するデメリット

やはり「上前をはねられる」ことでしょうか。芸能事務所の場合、芸能人が独立すると収入が激増すると良く言われます。医局ではそういうことはありませんが、医局からどこかの病院に派遣される際に給料が安めということはあるかもしれません。

また、「望まぬ職場に派遣される」というリスクも有ります。芸能人では恥ずかしい仕事があるかもしれませんし、医師だと激務で薄給の職場で数年仕事をしなければならないかもしれません。

 

逆に所属しない場合では、上記の逆で、「仕事を自分で探さなければならないけど、好きなことだけできるし、うまくいけば収入も高くなる」というメリット・デメリットがあります。

基本的にこういうことを天秤にかけて組織に所属するしないを決めれば良いと思うのですが、SMAPの場合、これだけでああいう結果になったのではないように感じます。

 

組織が出来ると「組織を保つための力」が生まれる

本来であれば人を派遣するしないの機能を持つ組織なので、良い職場に人を沢山派遣できる組織が生き残ってそうでない組織からは人がどんどんやめていけば良いだけになります。でも、実際に組織に所属すると様々な理不尽に付き合わなければならなくなりますし、良い意味でも悪い意味でも本来の目的の良い職場への派遣以外のことも増えてきます。

1. 所属すること自体が目的になる

ジャニーズ事務所に所属するということは、オーディションに受かることも必要でしょうし、大変なことです。ですので、所属しているというだけでプライドがある程度満たされることになります。僕も卒業した大学の医局で、母校愛もあって所属することで満たされるものもありました。また、長く所属すると人と人とのつながりもできるので、徐々に愛着がわくのは人としても当然のことでしょう。こうして所属することだけで満足して、理不尽に耐えるような人が出てきます。これは組織自体の「魅力」なので基本的には良い力だと思います。

2. 所属を離れることに罰が出来る

「脱退したら仕事させないぞ」というやつです。組織を離れていく人に対して、組織が業界に働きかけてその後の仕事を得られないようにするというという圧力です。医局も昔は教授が周囲の医師会などに働きかけて脱退者の開業したクリニックを冷遇するということがあったようですが、さすがにその力は医局からは失われています。しかし、芸能界ではまだまだ事務所の「干す」力は強いようで、今回のSMAPの件でもまことしやかにそのような脅しがあったなどと語られていました。これは理不尽の代表のようなもので悪い力だと思います。

 

「罰」があるというのは幻想

さて、組織に所属するメリット・デメリットおよび組織の所属が創りだす陰陽の力について書きましたが、組織の所属が創りだす力というのは基本的に「イメージ」でできているので幻想です。所属する構成員や周囲の人達が「所属する価値がある」と勝手に思ったり、「やめたらば罰がある」と思ったりすることで作られていくものです。「罰」などは法律的な根拠があるわけでもないので、本来は無視してしまえば良いはずのものです。そもそも職場がありお金を生んでいるのは業界の方なので、仕事を斡旋しているだけの組織のほうが力が上になるというのも本来はおかしな話です。

なので、組織の構成員の大半が示し合わせてやめてしまえば組織の力自体が急速に落ちるわけなので結局罰を与えることができなくなってしまいますし、業界が示し合わせてその組織からの命令を無視して脱退した人たちを使い続ければそれで済む話だと思います。

今回、SMAPジャニーズ事務所をやめられなかったのは、その幻想を結局打ち破れなかったということなのでしょう。SMAP自体がすでに充分すぎるほどのブランドであり、事務所に所属しなかったからといって今後の仕事に大きな影響があるとは思えませんし、給料単価も上がるのではないでしょうか。また、あの会見の苦渋の表情を見ると事務所に対して愛着を今も感じているとは思いにくいです。(SMAP5人の意見が揃わず解散しなければならないという「SMAP」というチームに対する愛着はあるかもしれませんが) では、なぜSMAPはやめられなかったのかというと、やめた後に仕事が充分にもらえないのではないかという不安があったのだと思います。しかし、それは事務所が創りだした「幻想」であり、SMAPほどの存在感があれば打ち破れたのではないかと僕は感じています。

 

「組織」は本来の魅力で勝負すべき

こういう状況が起こった事自体ジャニーズ事務所の力が落ちてきていることが疑われますが、SMAPを引き止めるときに「離れた時の罰」という幻想でしか引き止められなかったことは組織としての魅力が落ちていることを示しています。もう一度「なぜジャニーズ事務所は人気なのか」ということを問いなおして、所属するメリットをさらに大きくして立て直していって欲しいと思います。「やめたら怖いよ」だけだったら、組織の種類としてはまるで○クザの事務所じゃないですか。

僕の所属する医局は、都心にあり、派遣先はまあまあで、医局員たちは飛び抜けた人はいませんが粒ぞろいです。しかし、徐々に力が落ちて新入医局員が減ってきて、派遣先を維持するのがやっとになってきています。余裕がなく人が育てられず、学会等で発言力のある人は皆無です。徐々に「幻想」が解け、所属することの喜びや離れることへの恐怖感も減少しています。願わくば僕の所属する医局もまた本来の「所属するメリット」の見つめなおしをして、立ち直っていってほしいと思います。

 

 

 

生活に割く精神的リソースを小さくしたい(反ミニマリスト)

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生活に割くリソースを小さくしたい、と最近思います。反ミニマリストと書きましたが、「生活に割く精神リソースミニマリズム」です。

以前、ミニマリストについて

ミニマリストは「わかって」ないと無理 - cyciatrist 自転車と精神科医療とあとなんかというエントリを書きました。

この中で、ミニマリストはモノを「これは要らない」と捨てていく生活なだけではなく、「これは残すべき、良い物である」とモノを選び取っていく生活でもある、と考察しました。しかし、これは常に意識して生活するのは結構大変そうです。

ミニマリストさんたちのようなシンプルで少ないモノに囲まれて生きることに憧れがあるのは事実です。が、そのような生活を維持するのにはとてもエネルギーが要りそうです。

 

質の良い生活もしたいけど、生活以外のことも目一杯したい

ミニマリストさんたちは「生活」をとてもよく見つめ、考え、実行して生きていると思います。でも、僕は生活だけじゃなくて、仕事や遊びや趣味なども目一杯楽しみたいと思っていますし、その中で何かを実現したいと考えています。

もちろん、ミニマリスト的な生き方と仕事等は両立しうるものです。別にミニマリストになったからといって仕事ができなくなるわけではありません。遊びに行くことができなくなるわけでもありません。ただ、ちょっと不便になるだけだと思います。僕はそのちょっとの不便さにとても抵抗感があります。生活の細々したところに少しずつ感じる不便感、そういうものがあると徐々に生活以外に向ける精神的リソースが減ってくるんじゃないかと不安になるのです。目一杯に仕事や遊びにエネルギーを使いたいのに、生活がちょっと不便で気を取られてしまうんじゃないかと不安になります。

 

ミニマリストは絶対エネルギーを使うと思う

今はモノについてはとても便利な時代です。すぐそこにコンビニがあって深夜まで何かを買いに行けますし、クリック一つで通販会社が家までモノを送り届けてくれます。モノ自体も考え抜かれて作られており、やりたい作業に最適化されたモノがすぐに見つかります。また、よくデザインされて所有欲を満たすモノが沢山あります。なので、簡単に身の回りは便利なモノにあふれてしまいます。

この中で、身の回りにあるモノを少なく保とうとするのはとてもエネルギーがいることだと思います。「あ、あれがあったら便利なのに」「これ持っとくといついつに使えそう」などと思うのをぐっと我慢して、「うちにあるあれはあれとあれに使えるから、この道具はいらないな」などと毎回考えないといけないというのはなかなかに大変なのではないでしょうか。「これは要らない」と捨てていくだけならまだ自分のエネルギーでやれそうですが、「これは残すべき、良い物である」と何かの折に毎回モノを選び取っていく生活は、おそらく常にエネルギーを必要とされる生活に違いありません。その生活をした上で仕事、遊びに全力投球は僕には大変な気がします。

生活をシンプルに保つために恒常的に精神的なリソースが取られるのは苦痛です。

 

ミニマリストは生活をとても良く見据えて生活していると思うのですが、それをやるにはとても大きなエネルギーが必要で、やっぱり他のことが犠牲になってしまうのではないでしょうか。僕はミニマリストに憧れながらも、好きなものを好きなように買って便利に使い、生活に割く精神的なリソース、エネルギーを少なく保って、生活以外をなるべく目一杯に楽しもうと思います。

*1:Patrik Nygren

医者になるのか悩むこともありますよね

2周ほど乗り遅れました。

医学部在籍だけど医者になることに悩んでいるというこの増田を読み、

anond.hatelabo.jp

これに対するセンパイ医師達の「オトナの意見」を読みました

p-shirokuma.hatenadiary.com

fujipon.hatenablog.com

ま、そうですよね。僕も医者やってますが、「医者にならないほうがいい」とはさすがに言えないです。

 

このセンパイ医師達からの「大人の意見」にはほとんど医者になることのメリットが網羅されています。

医者は

「強い資格」で「収入が高い」ので「食べるのに困ることはない」こと。また、「好きな働き方が選べる」こと。

「社会的に高い地位」があり「尊敬される」ので「モテる」こと。

「高収入で高地位」なので「道楽に力を入れられる」こと。また、「別の仕事の土台に出来る」こと。

「科学的にも先端」なので、「学術的な発展」もある「豊穣な世界」であること。

などです。医者、最高ですね。

 

医師という仕事のデメリットとしては、

「一人前になるまでに時間が掛かる」「何も考えずに働いていると激務になる」「責任が重い」

といったところでしょうか。

僕は友人の多くが医師なので、正直これらがデメリットなのかよくわからないんですよね。他の業界がどれだけ一人前になるまで時間がかかるかとか、激務なのかとか、責任が重いのかとか比較できないので、「どれだけ医者がほかのしごとと比べて大変か」というのがよくわかりません。実はあんまりかわらないんじゃないかとも思ったりします。

 

ということで、リンクのセンパイ達や僕の意見を総合すると「医者はちょっと大変だけど、なっとくとお得だからなっとけよ。その後考えな」ということになります。

でも、多分これは増田もわかってて、その上で言ってることなんだとも思うんですよね。多分増田にとっては「エンジニアになる」ということが質的に異なる意味を持っていて、いくら医師が渡世に便利でメリットを言われても「オトナはそう言うし、それはわかるけど、でもエンジニアになりたい」と考えるだけなんだと思います。

そんな増田に僕らが話せるのは「オトナの意見」だけです。でも、そんなオトナの意見では増田の「打算」は動かせても「本当の気持ち」は動かせないんでしょうね。増田が本当に自分が満足できる選択をすることを願っています。

 

さて、以下は引用した記事になかった僕の考える医者であることのメリットです。

「モラトリアムが長い」:僕自身が4年制大学で就職していたら完全に潰れていたと思いますね。21歳で就職活動とか、想像つかないです。21歳のころの自分を考えると幼すぎて一般社会に出たらすぐに潰されていたと思いますね。面接官に生意気なこととか言って内定とかもらえなかったと思います。6年間の学生が終わって、24歳くらいで研修医が始まって、それでも庇護的に扱われて、26歳くらいでやっとまともに仕事ができるだけの人格になったと思います。それだけの時間がもらえて良かった。

「役割や目的がはっきりしている」:医者という仕事は面倒なことも多いのですが、単純なこともあります。それは「目の前の患者さんの病気を良くしたい」という姿勢、気持ちがどこでいつ医者をやっても変わらないことです。いい加減な医者や能力の低い医者はいくらでも見たことはありますが、「患者さんの病気を悪くしたい」と思って仕事をしている医者は一人も見たことがありません。この、自分の役割や仕事の目的及び目標がブレずにすむのは本当に幸せな仕事だと思います。

 

また、あまり実例がなかったので、医者になった後にエンジニア的な仕事で実績を上げたもっとも良い例として放射線科の松田博史先生を提示しておきます。

松田博史先生はMRIにおいて脳神経線維の描出を可能にした拡散テンソル、SPECTにおいて一般健常人との統計学的比較を可能にしたe-ZISMRIにおいてアルツハイマー認知症の海馬萎縮を統計学的に検出可能にしたVSRADなどの開発で著名です。

放射線科はエンジニア的な仕事が多数行われている分野です。医者ではないですが、僕の友人はMRIでの心臓の描出のソフトウェアを開発しています。(動くものをMRIで捉えるのは技術的に非常に困難で、ずっと動きつづけている心臓をMRIで捉えるのは挑戦的な分野です) 

また、知人は自分で遠隔で放射線画像を送受信できるシステムを開発し、それでベンチャーを立ち上げて、放射線画像の遠隔読影の会社を運営しています。

言うまでもなくiPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥先生も医師であり、「エンジニア的」と言ってもいい仕事だと思います。

超音波検査の基礎を作ったのも日本人の脳外科医だと聞いたことがあります。こういった放射線系の検査機器や方法はエンジニア的知識・技術が活かされる分野と思います。

 

また、精神科医で脳科学に携わるものとしては、エンジニア的な能力が今後の脳科学にはとても必要だと考えているので、エンジニア的思考のある人が医者になって、精神科医になって、その能力を脳科学の研究に活かしてもらいたいと思います。

人間を生体として扱えるのは医者の特権です。いくらエンジニア的な仕事を突き詰めても生体としての人間に触れることは出来ません。しかし、現在はエンジニア的な仕事でも生体とのインタラクションを意識しなければならない時代だと思います。人間とどのようなインターフェイスで人間と接するのかをエンジニアは常に考えねばならない時代です。ここで、生体として人間を扱える医者の特権が大きく活かされる事になると思います。また、逆に人間の研究、特に脳科学を研究する際にエンジニア的発想は今後とても必要とされると思います。brain-machineインターフェイスは今後の脳機能−精神疾患を研究する際に間違いなく必須の技術になると思います。そういったインターフェイスの開発をエンジニア的思考のある医師が行っていくことはとても重要だと思います。

 

最後に、僕の父の話です。

父は科学者になるのが夢で、医学部入学も可能な学業成績だったにも関わらず、理学部に入学しました。祖父は医者になってもらいたかったようで、随分がっかりしていたそうです。大学を卒業する段になって、「医者になりたいからもう一度受験したい」と言い出し、祖父に叱られて結局研究者の道を歩みました。父は研究者としてはまずまずの経歴を歩みましたが、今でも医者になればよかったかもと愚痴ることがあります。

 

僕もわりとアカデミック志向だったのに開業することになりました。増田が今後良い道を歩きますように。

 

追記:開業するクリニックのサイトが完成しました

cyciatrist.hatenablog.com

ボストンでの路駐許可証の取得

ボストン(Massachusetts州Cambridge市)におけるparking permitの取得方法

ボストンで車を購入した時に、Parking permitという車を路駐するための許可証を取得しました。これがあれば自宅周辺で許可された道路では常に路駐が可能です。取得の時のことを記録しておきます。

 

アメリカの路駐文化

アメリカに来てのカルチャーショックの一つは路駐です。ボストンは路駐だらけ。路地に入ると車が所狭しと停めてあります。
なぜそうなるのか、これには二つの理由が考えられました。
一つめはローマなどと同様の理由でスペースがないことです。両者とも古い歴史のある(ローマに比べたらボストンなんか対したことないですが)街であり、人口密度が高いです。車のない時代にたてられた古い建物が多く残っていて取り壊す訳にも行かず、駐車場を作ることができません。なので路駐するしかないという状況です。
二つ目はアメリカの国土が広すぎて、路駐が迷惑とかそういった観念がなく、また道路が公共の物でみんなで共有して使うという意識が強く路駐するのも当然の権利という感覚があることです。何も表示の出てないところは大抵路駐可で24時間停めてもかまわない、ので路駐します。
といったところでしょうか。

 

車を買うのに車庫証明はいらない

基本的に路駐できることは当然の権利なので、アメリカでは車の購入に車庫証明はいりません。だから、路駐を前提にして車を購入することもできます。家に駐車場がなくても、駐車場を契約しなくても車を購入できます。
私が住んでいたCambridge市はボストンの中心地の一つなのでParking permitという路駐の許可証が必要でしたが、ボストン(マサチューセッツ州)でも中心地をのぞけば特に許可もなく路駐が可能です。友人から聞いた話しではニューヨークは中心地でもとくに許可は必要なく早いもの勝ちで路駐が可能とのことでした。
よく考えると、アメリカ人の感覚だと「許可が必要」なのではなく、「住民だから路駐をする権利がある」という表現の方が正しいのかもしれません。あるいは路駐できるのが当然の権利だが、中心地で混みすぎているのでやむなく住民以外にはその権利を制限しているという感覚かも。
とにかく、その「市内で路駐をする許可証」がparking permitです。
取得するとシールをもらえ、それを車に貼っていると指定された区域内であれば標識にparking by permit onlyと表示されている道路のどこでも路駐してかまいません。

 

Parking permitの取得方法

Cambridge市では、Traffic, Parking & Transportationで取得できます。非常に簡単です。他の市でも同様だと思います。
住所はhttp://www2.cambridgema.gov/traffic/Directions.cfmにあるように
344 Broadway
Cambridge, MA 02139
で、City Hallの中にあります。iphoneのmapではなぜか道の反対側が示されてしまい一度迷いました。(google mapでは正しく表示されていました)
取得にはhttp://www2.cambridgema.gov/traffic/RPP.cfmにあるように、
 1. Application (use for mail - in only) 申込書
 2. Copy of your vehicle registration for walk-in & mail-in. 車のレジストレーション
 3. Proof of residency 住人であることの証明
 4. Fee of $25.00 in check or money order with application by mail; check, cash or credit/debit card when renewing in the office. チェックか現金で25ドル
が必要です。
実際には1. のアプリケーションは書かされることもなく、「permit ください」と言ったら勝手に手続きされたので必要ありませんでした。
2. は車を購入した後に保険屋さんがくれるcertificate of registrationです。
3. のproof of residencyはアメリカでの慣例で郵便物を持って行く形です。自分の名前で自分の住所に送られてきた郵便物を2種類持って行くことが必要です。
30日以内に届いた物を持っていかねばならないのですが、それを知らず、はじめは古い物を持って行ってしまって却下されてしまいました。
そのときは上記サイトにも記載のあるtemporary parking permit(一週間限定の許可証)をアパートの契約書を証明として発行してもらい難を逃れ、後日正式にparking permitを取得しました。
こういった住所証明では銀行や領収書の形の郵便物でなければならないという説もあるのですが、ここでは特にそんなことなく後日日本から届いた荷物の伝票を持って行ったら通用しました。
で、permitは25ドル!で取得できるというのも驚きです。一年間有効で、駐車場の相場が月150ドルの地区と考えるとすごく安いと思いました。

Parking permitは名刺大のステッカーで見えやすいところ(フロントガラスの内側が多い)に貼るものなのですが、市内の写真が良くデザインされていてステキでした。毎年コンテストをやって、勝った写真が採用されているようです。

Resident Permit Photo Contest - Traffic, Parking and Transportation Department - City of Cambridge, Massachusetts

 

Parking permitで停められる場所

下の写真の標識がほとんどの路地のそこら中にたててあります。 上の赤い表示の→が示している範囲の道路は路駐禁止。下の黒い表示の←が示している範囲の道路はparking permitがあれば路駐可能です。基本的に路駐できるところは「curb(縁石)があるところ」で、縁石のないところや交差点近辺には駐車禁止です。

「except sundays」は「日曜日はparking permitがなくても駐車可能」の意味。
この辺みても「路駐できるのが当然」というアメリカの感覚が読み取れるような気がします。
黒いparking permitの掲示の隣の赤い表示はstreet cleaning の告知。毎第二木曜日にはここの通りは掃除をするから、8AMから2PMまでは車を止めてたらレッカーするよという意味です。

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時折2ブロック先くらまで車を停めに行かなければならなかったですが、基本的に駐車位置も家の近くに見つかるし、特に問題ありませんでした。毎日駐車できるスキマをみつけるのはちょっと面倒でしたが。「ここはいつも俺が使ってるところだから停めるな」などと理不尽な難癖をつけてくる住民も特にいませんでした。住んでいる間に記録的な豪雪があったのですが、その時は本当に大変でした。雪で路肩がほとんど埋まってしまい、車を停めるところがほとんどなくなってしまって苦労しました。

問題はやはりTow(レッカー)で、一度、工事のために駐車禁止を掲示していたのに気付かずTowされたことがありました。その際は市のHPをチェックするとTowした車のナンバーと車種が公開され、どこのTow会社が持って行ったかがわかるようになっているので、その会社に取りに行くことができました。ちなみに、アメリカの場合は免許証の点数は「moving violation」と呼ばれていて、スピード違反など運転している時の違反のみが加算されます。Towされた場合は違反点はありません。

 

書いていてやっぱり日本とは文化が違うなーと思いました。路駐が当然なので、車に傷がつくのも当然です。よく生き延びて帰ってきたなと思います。

薬物療法か心理療法か、でしょうか?

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うつ病における薬物療法の重要性

うつ病の治療のみならず、統合失調症てんかんなどに対する現在の精神科の治療では薬物療法は欠かせません。少なくとも中等症以上のうつ病における薬物療法には明確なエビデンスがあり、どのガイドラインを見ても一番はじめに試みるべきなのは薬物療法と書かれています。最近のガイドラインでは以前に比べて心理療法を中心とした薬物療法以外の治療法を強調するものもありますが、それでも軽症うつ病に限っての話で、それも薬物療法と併記する形などが多くささやかなものです。

さらに今でも新しい抗うつ薬が毎年のように発売されていますし、そのどれもが充分な効果があって副作用が少なくなっており、治療の大きな武器になっていると感じます。実際、私を含めてまわりの精神科医では昔の副作用の多い抗うつ薬を用いることは非常に少なくなりました。うつ病における抗うつ薬治療は進歩を続けており、ただ医学雑誌に研究が載るだけではなく抗うつ薬は実際に患者を救っています。また、私達も新しい抗うつ薬の使い方に習熟してさらに良い抗うつ薬による治療を目指しています。

しかし、こういった現状においても、薬物療法でなく心理療法を求める方や薬物療法を避けるべきであるというご意見をよく見かけます。「薬に頼らない治療」を謳うクリニックも多く目にします。薬物療法の重要性や確立された効果とは反する形で。

 

なぜ薬物療法を避けようとするのか

こういった薬物療法を避けようとする人や批判する人がなぜこんなに多いのでしょうか。もちろん、「なるべく薬を飲みたくない」という気持ちは理解できるのですが、なにか親の敵のように薬物療法を敵視する人たちが多くいるように思えます。なぜ彼らはそんなに薬物療法を敵視するのでしょうか。
よくある批判に「薬漬け医療」という批判があります。医師が製薬会社と結託して、患者さんを薬漬けにし、金儲けをしているという批判です。これは基本的に誤りです。いくら薬を処方しても医師には金銭的なメリットはありません。(製薬会社にはありますが)
「薬は怖い」というなんとなくの恐怖感があるのは理解できます。確かに精神に作用する薬剤と考えると恐ろしい感じもします。なんとなく「カウンセリング」というほうが安全で優しく、柔らかいイメージもあるのでしょう。カウンセリングや心理療法を選択するのは患者さんの自由ではありますが、その際には薬物療法を得体の知れない恐怖感だけで避けないでほしいと思います。
この薬に対する恐怖心には、「薬の治療ですごく副作用が出た」とか「薬漬けになって廃人になった」といった体験談を聞いたことから来ていることもあるかもしれません。「廃人」という状態に薬でなるのは考えにくいのですが、インターネット上では「廃人」になると声高く主張する人もみかけます。僕は体験談の多くは根拠が薄いものであると思います。
そして、こういった薬物療法を否定する言説のほとんどは薬物療法をやめて「カウンセリング」などの心理療法をすることを勧めています。僕はそれに影響されて患者さんの一定数は薬物療法を避けるようになっていってしまっていると感じています。

 

薬物療法と心理療法の二者択一なのか

僕は薬物療法を批判する言説の多くは非常に極端だと感じています。そして薬物療法を批判する言説の多くが非常に安易に「カウンセリング」をはじめとした心理療法を勧めているのに違和感を感じます。なぜ彼らはそこまで薬物療法を嫌うのでしょうか。なぜ彼らは薬物療法と心理療法の二者択一でしか語らないのでしょうか。なぜすべての心理療法がすべての薬物療法に勝るような印象付けを行うのでしょうか。
確かに、劣悪な薬物療法を行う精神科医が存在するのは確かです。しかし、それと同時に適切な薬物療法を行う医師も存在します。薬物療法を極端に嫌う人たちは、劣悪な薬物療法と心理療法を比べている可能性があると思います。適切な薬物療法とそれ以外の治療を比べた場合、うつ病においては適切な薬物療法が有利であるというエビデンスが多くあります。一部の劣悪な薬物療法を根拠に薬物療法全体を否定すべきではありません。
もちろん、それぞれの患者達にあった対応、治療の組み立て、組み合わせは必要です。薬物療法、心理療法両者を組み合わせ、それぞれの患者さんにあった方針を出していくべきですが、極端な意見を基にしてどちらか一方に偏ることは避けるべきです。また、一定に証明されている薬物療法の有効性を無下に否定するべきではありません。
もしうつ病を患った時には、ネットの極端な意見を信じ込まず適切な薬物療法を受けることを選択肢に入れてもらえると嬉しいです。

*1:Bill Brooks