cyciatrist 自転車と精神科医療とあとなんか

ボストン留学帰りの精神科医。自転車好き。

医者になるのか悩むこともありますよね

2周ほど乗り遅れました。

医学部在籍だけど医者になることに悩んでいるというこの増田を読み、

anond.hatelabo.jp

これに対するセンパイ医師達の「オトナの意見」を読みました

p-shirokuma.hatenadiary.com

fujipon.hatenablog.com

ま、そうですよね。僕も医者やってますが、「医者にならないほうがいい」とはさすがに言えないです。

 

このセンパイ医師達からの「大人の意見」にはほとんど医者になることのメリットが網羅されています。

医者は

「強い資格」で「収入が高い」ので「食べるのに困ることはない」こと。また、「好きな働き方が選べる」こと。

「社会的に高い地位」があり「尊敬される」ので「モテる」こと。

「高収入で高地位」なので「道楽に力を入れられる」こと。また、「別の仕事の土台に出来る」こと。

「科学的にも先端」なので、「学術的な発展」もある「豊穣な世界」であること。

などです。医者、最高ですね。

 

医師という仕事のデメリットとしては、

「一人前になるまでに時間が掛かる」「何も考えずに働いていると激務になる」「責任が重い」

といったところでしょうか。

僕は友人の多くが医師なので、正直これらがデメリットなのかよくわからないんですよね。他の業界がどれだけ一人前になるまで時間がかかるかとか、激務なのかとか、責任が重いのかとか比較できないので、「どれだけ医者がほかのしごとと比べて大変か」というのがよくわかりません。実はあんまりかわらないんじゃないかとも思ったりします。

 

ということで、リンクのセンパイ達や僕の意見を総合すると「医者はちょっと大変だけど、なっとくとお得だからなっとけよ。その後考えな」ということになります。

でも、多分これは増田もわかってて、その上で言ってることなんだとも思うんですよね。多分増田にとっては「エンジニアになる」ということが質的に異なる意味を持っていて、いくら医師が渡世に便利でメリットを言われても「オトナはそう言うし、それはわかるけど、でもエンジニアになりたい」と考えるだけなんだと思います。

そんな増田に僕らが話せるのは「オトナの意見」だけです。でも、そんなオトナの意見では増田の「打算」は動かせても「本当の気持ち」は動かせないんでしょうね。増田が本当に自分が満足できる選択をすることを願っています。

 

さて、以下は引用した記事になかった僕の考える医者であることのメリットです。

「モラトリアムが長い」:僕自身が4年制大学で就職していたら完全に潰れていたと思いますね。21歳で就職活動とか、想像つかないです。21歳のころの自分を考えると幼すぎて一般社会に出たらすぐに潰されていたと思いますね。面接官に生意気なこととか言って内定とかもらえなかったと思います。6年間の学生が終わって、24歳くらいで研修医が始まって、それでも庇護的に扱われて、26歳くらいでやっとまともに仕事ができるだけの人格になったと思います。それだけの時間がもらえて良かった。

「役割や目的がはっきりしている」:医者という仕事は面倒なことも多いのですが、単純なこともあります。それは「目の前の患者さんの病気を良くしたい」という姿勢、気持ちがどこでいつ医者をやっても変わらないことです。いい加減な医者や能力の低い医者はいくらでも見たことはありますが、「患者さんの病気を悪くしたい」と思って仕事をしている医者は一人も見たことがありません。この、自分の役割や仕事の目的及び目標がブレずにすむのは本当に幸せな仕事だと思います。

 

また、あまり実例がなかったので、医者になった後にエンジニア的な仕事で実績を上げたもっとも良い例として放射線科の松田博史先生を提示しておきます。

松田博史先生はMRIにおいて脳神経線維の描出を可能にした拡散テンソル、SPECTにおいて一般健常人との統計学的比較を可能にしたe-ZISMRIにおいてアルツハイマー認知症の海馬萎縮を統計学的に検出可能にしたVSRADなどの開発で著名です。

放射線科はエンジニア的な仕事が多数行われている分野です。医者ではないですが、僕の友人はMRIでの心臓の描出のソフトウェアを開発しています。(動くものをMRIで捉えるのは技術的に非常に困難で、ずっと動きつづけている心臓をMRIで捉えるのは挑戦的な分野です) 

また、知人は自分で遠隔で放射線画像を送受信できるシステムを開発し、それでベンチャーを立ち上げて、放射線画像の遠隔読影の会社を運営しています。

言うまでもなくiPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥先生も医師であり、「エンジニア的」と言ってもいい仕事だと思います。

超音波検査の基礎を作ったのも日本人の脳外科医だと聞いたことがあります。こういった放射線系の検査機器や方法はエンジニア的知識・技術が活かされる分野と思います。

 

また、精神科医で脳科学に携わるものとしては、エンジニア的な能力が今後の脳科学にはとても必要だと考えているので、エンジニア的思考のある人が医者になって、精神科医になって、その能力を脳科学の研究に活かしてもらいたいと思います。

人間を生体として扱えるのは医者の特権です。いくらエンジニア的な仕事を突き詰めても生体としての人間に触れることは出来ません。しかし、現在はエンジニア的な仕事でも生体とのインタラクションを意識しなければならない時代だと思います。人間とどのようなインターフェイスで人間と接するのかをエンジニアは常に考えねばならない時代です。ここで、生体として人間を扱える医者の特権が大きく活かされる事になると思います。また、逆に人間の研究、特に脳科学を研究する際にエンジニア的発想は今後とても必要とされると思います。brain-machineインターフェイスは今後の脳機能−精神疾患を研究する際に間違いなく必須の技術になると思います。そういったインターフェイスの開発をエンジニア的思考のある医師が行っていくことはとても重要だと思います。

 

最後に、僕の父の話です。

父は科学者になるのが夢で、医学部入学も可能な学業成績だったにも関わらず、理学部に入学しました。祖父は医者になってもらいたかったようで、随分がっかりしていたそうです。大学を卒業する段になって、「医者になりたいからもう一度受験したい」と言い出し、祖父に叱られて結局研究者の道を歩みました。父は研究者としてはまずまずの経歴を歩みましたが、今でも医者になればよかったかもと愚痴ることがあります。

 

僕もわりとアカデミック志向だったのに開業することになりました。増田が今後良い道を歩きますように。

 

追記:開業するクリニックのサイトが完成しました

cyciatrist.hatenablog.com

ボストンでの路駐許可証の取得

ボストン(Massachusetts州Cambridge市)におけるparking permitの取得方法

ボストンで車を購入した時に、Parking permitという車を路駐するための許可証を取得しました。これがあれば自宅周辺で許可された道路では常に路駐が可能です。取得の時のことを記録しておきます。

 

アメリカの路駐文化

アメリカに来てのカルチャーショックの一つは路駐です。ボストンは路駐だらけ。路地に入ると車が所狭しと停めてあります。
なぜそうなるのか、これには二つの理由が考えられました。
一つめはローマなどと同様の理由でスペースがないことです。両者とも古い歴史のある(ローマに比べたらボストンなんか対したことないですが)街であり、人口密度が高いです。車のない時代にたてられた古い建物が多く残っていて取り壊す訳にも行かず、駐車場を作ることができません。なので路駐するしかないという状況です。
二つ目はアメリカの国土が広すぎて、路駐が迷惑とかそういった観念がなく、また道路が公共の物でみんなで共有して使うという意識が強く路駐するのも当然の権利という感覚があることです。何も表示の出てないところは大抵路駐可で24時間停めてもかまわない、ので路駐します。
といったところでしょうか。

 

車を買うのに車庫証明はいらない

基本的に路駐できることは当然の権利なので、アメリカでは車の購入に車庫証明はいりません。だから、路駐を前提にして車を購入することもできます。家に駐車場がなくても、駐車場を契約しなくても車を購入できます。
私が住んでいたCambridge市はボストンの中心地の一つなのでParking permitという路駐の許可証が必要でしたが、ボストン(マサチューセッツ州)でも中心地をのぞけば特に許可もなく路駐が可能です。友人から聞いた話しではニューヨークは中心地でもとくに許可は必要なく早いもの勝ちで路駐が可能とのことでした。
よく考えると、アメリカ人の感覚だと「許可が必要」なのではなく、「住民だから路駐をする権利がある」という表現の方が正しいのかもしれません。あるいは路駐できるのが当然の権利だが、中心地で混みすぎているのでやむなく住民以外にはその権利を制限しているという感覚かも。
とにかく、その「市内で路駐をする許可証」がparking permitです。
取得するとシールをもらえ、それを車に貼っていると指定された区域内であれば標識にparking by permit onlyと表示されている道路のどこでも路駐してかまいません。

 

Parking permitの取得方法

Cambridge市では、Traffic, Parking & Transportationで取得できます。非常に簡単です。他の市でも同様だと思います。
住所はhttp://www2.cambridgema.gov/traffic/Directions.cfmにあるように
344 Broadway
Cambridge, MA 02139
で、City Hallの中にあります。iphoneのmapではなぜか道の反対側が示されてしまい一度迷いました。(google mapでは正しく表示されていました)
取得にはhttp://www2.cambridgema.gov/traffic/RPP.cfmにあるように、
 1. Application (use for mail - in only) 申込書
 2. Copy of your vehicle registration for walk-in & mail-in. 車のレジストレーション
 3. Proof of residency 住人であることの証明
 4. Fee of $25.00 in check or money order with application by mail; check, cash or credit/debit card when renewing in the office. チェックか現金で25ドル
が必要です。
実際には1. のアプリケーションは書かされることもなく、「permit ください」と言ったら勝手に手続きされたので必要ありませんでした。
2. は車を購入した後に保険屋さんがくれるcertificate of registrationです。
3. のproof of residencyはアメリカでの慣例で郵便物を持って行く形です。自分の名前で自分の住所に送られてきた郵便物を2種類持って行くことが必要です。
30日以内に届いた物を持っていかねばならないのですが、それを知らず、はじめは古い物を持って行ってしまって却下されてしまいました。
そのときは上記サイトにも記載のあるtemporary parking permit(一週間限定の許可証)をアパートの契約書を証明として発行してもらい難を逃れ、後日正式にparking permitを取得しました。
こういった住所証明では銀行や領収書の形の郵便物でなければならないという説もあるのですが、ここでは特にそんなことなく後日日本から届いた荷物の伝票を持って行ったら通用しました。
で、permitは25ドル!で取得できるというのも驚きです。一年間有効で、駐車場の相場が月150ドルの地区と考えるとすごく安いと思いました。

Parking permitは名刺大のステッカーで見えやすいところ(フロントガラスの内側が多い)に貼るものなのですが、市内の写真が良くデザインされていてステキでした。毎年コンテストをやって、勝った写真が採用されているようです。

Resident Permit Photo Contest - Traffic, Parking and Transportation Department - City of Cambridge, Massachusetts

 

Parking permitで停められる場所

下の写真の標識がほとんどの路地のそこら中にたててあります。 上の赤い表示の→が示している範囲の道路は路駐禁止。下の黒い表示の←が示している範囲の道路はparking permitがあれば路駐可能です。基本的に路駐できるところは「curb(縁石)があるところ」で、縁石のないところや交差点近辺には駐車禁止です。

「except sundays」は「日曜日はparking permitがなくても駐車可能」の意味。
この辺みても「路駐できるのが当然」というアメリカの感覚が読み取れるような気がします。
黒いparking permitの掲示の隣の赤い表示はstreet cleaning の告知。毎第二木曜日にはここの通りは掃除をするから、8AMから2PMまでは車を止めてたらレッカーするよという意味です。

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時折2ブロック先くらまで車を停めに行かなければならなかったですが、基本的に駐車位置も家の近くに見つかるし、特に問題ありませんでした。毎日駐車できるスキマをみつけるのはちょっと面倒でしたが。「ここはいつも俺が使ってるところだから停めるな」などと理不尽な難癖をつけてくる住民も特にいませんでした。住んでいる間に記録的な豪雪があったのですが、その時は本当に大変でした。雪で路肩がほとんど埋まってしまい、車を停めるところがほとんどなくなってしまって苦労しました。

問題はやはりTow(レッカー)で、一度、工事のために駐車禁止を掲示していたのに気付かずTowされたことがありました。その際は市のHPをチェックするとTowした車のナンバーと車種が公開され、どこのTow会社が持って行ったかがわかるようになっているので、その会社に取りに行くことができました。ちなみに、アメリカの場合は免許証の点数は「moving violation」と呼ばれていて、スピード違反など運転している時の違反のみが加算されます。Towされた場合は違反点はありません。

 

書いていてやっぱり日本とは文化が違うなーと思いました。路駐が当然なので、車に傷がつくのも当然です。よく生き延びて帰ってきたなと思います。

薬物療法か心理療法か、でしょうか?

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うつ病における薬物療法の重要性

うつ病の治療のみならず、統合失調症てんかんなどに対する現在の精神科の治療では薬物療法は欠かせません。少なくとも中等症以上のうつ病における薬物療法には明確なエビデンスがあり、どのガイドラインを見ても一番はじめに試みるべきなのは薬物療法と書かれています。最近のガイドラインでは以前に比べて心理療法を中心とした薬物療法以外の治療法を強調するものもありますが、それでも軽症うつ病に限っての話で、それも薬物療法と併記する形などが多くささやかなものです。

さらに今でも新しい抗うつ薬が毎年のように発売されていますし、そのどれもが充分な効果があって副作用が少なくなっており、治療の大きな武器になっていると感じます。実際、私を含めてまわりの精神科医では昔の副作用の多い抗うつ薬を用いることは非常に少なくなりました。うつ病における抗うつ薬治療は進歩を続けており、ただ医学雑誌に研究が載るだけではなく抗うつ薬は実際に患者を救っています。また、私達も新しい抗うつ薬の使い方に習熟してさらに良い抗うつ薬による治療を目指しています。

しかし、こういった現状においても、薬物療法でなく心理療法を求める方や薬物療法を避けるべきであるというご意見をよく見かけます。「薬に頼らない治療」を謳うクリニックも多く目にします。薬物療法の重要性や確立された効果とは反する形で。

 

なぜ薬物療法を避けようとするのか

こういった薬物療法を避けようとする人や批判する人がなぜこんなに多いのでしょうか。もちろん、「なるべく薬を飲みたくない」という気持ちは理解できるのですが、なにか親の敵のように薬物療法を敵視する人たちが多くいるように思えます。なぜ彼らはそんなに薬物療法を敵視するのでしょうか。
よくある批判に「薬漬け医療」という批判があります。医師が製薬会社と結託して、患者さんを薬漬けにし、金儲けをしているという批判です。これは基本的に誤りです。いくら薬を処方しても医師には金銭的なメリットはありません。(製薬会社にはありますが)
「薬は怖い」というなんとなくの恐怖感があるのは理解できます。確かに精神に作用する薬剤と考えると恐ろしい感じもします。なんとなく「カウンセリング」というほうが安全で優しく、柔らかいイメージもあるのでしょう。カウンセリングや心理療法を選択するのは患者さんの自由ではありますが、その際には薬物療法を得体の知れない恐怖感だけで避けないでほしいと思います。
この薬に対する恐怖心には、「薬の治療ですごく副作用が出た」とか「薬漬けになって廃人になった」といった体験談を聞いたことから来ていることもあるかもしれません。「廃人」という状態に薬でなるのは考えにくいのですが、インターネット上では「廃人」になると声高く主張する人もみかけます。僕は体験談の多くは根拠が薄いものであると思います。
そして、こういった薬物療法を否定する言説のほとんどは薬物療法をやめて「カウンセリング」などの心理療法をすることを勧めています。僕はそれに影響されて患者さんの一定数は薬物療法を避けるようになっていってしまっていると感じています。

 

薬物療法と心理療法の二者択一なのか

僕は薬物療法を批判する言説の多くは非常に極端だと感じています。そして薬物療法を批判する言説の多くが非常に安易に「カウンセリング」をはじめとした心理療法を勧めているのに違和感を感じます。なぜ彼らはそこまで薬物療法を嫌うのでしょうか。なぜ彼らは薬物療法と心理療法の二者択一でしか語らないのでしょうか。なぜすべての心理療法がすべての薬物療法に勝るような印象付けを行うのでしょうか。
確かに、劣悪な薬物療法を行う精神科医が存在するのは確かです。しかし、それと同時に適切な薬物療法を行う医師も存在します。薬物療法を極端に嫌う人たちは、劣悪な薬物療法と心理療法を比べている可能性があると思います。適切な薬物療法とそれ以外の治療を比べた場合、うつ病においては適切な薬物療法が有利であるというエビデンスが多くあります。一部の劣悪な薬物療法を根拠に薬物療法全体を否定すべきではありません。
もちろん、それぞれの患者達にあった対応、治療の組み立て、組み合わせは必要です。薬物療法、心理療法両者を組み合わせ、それぞれの患者さんにあった方針を出していくべきですが、極端な意見を基にしてどちらか一方に偏ることは避けるべきです。また、一定に証明されている薬物療法の有効性を無下に否定するべきではありません。
もしうつ病を患った時には、ネットの極端な意見を信じ込まず適切な薬物療法を受けることを選択肢に入れてもらえると嬉しいです。

*1:Bill Brooks

ボストンでの運転について

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ボストンでの車の運転について

ボストンで2年ほど車を所有して毎日通勤や日用品の買い出しなどで使用していました。そのときの印象です。

アメリカでの運転は簡単でした。左右側通行の違いなどありますが、基本的にアメリカの道は単純で広く運転自体に苦労はしません。特に西海岸南部やフロリダでは顕著で、広い道が4車線でまっすぐ続いているだけで運転に気を使うことなどありません。ボストンはそこまでではありませんでしたが、運転自体は楽に感じていました。今後日本で毎日運転して通勤するなど考えにくいですが、ボストンでは毎日運転して通勤していて、全くストレスではありませんでした。日本に比べると道も広く交通量もそれほど多くないので運転自体はそれほど怖くありませんでした。

 

ボストン(マサチューセッツ州)はアメリカ内でも運転の荒い地域と言われています。
他の州に比べて道が狭い傾向にあることや、道が碁盤になっておらず複雑であること等がその理由の一部であるようですが、地元の人に聞いてもなぜ運転が荒いかのはっきりした理由はよくわかりませんでした。ボストンの人は「冷たい」と言っている人もいましたが、他の人は違う意見もあるようで、「大阪の人はせっかちだから運転が荒い」というような人々の性格から推察されるような一貫した意見は得られませんでした。運転して思ったのは日本のほうが運転が荒い、というかドライバーがイライラしているということでした。

そのなかで、以下がボストンで運転していて僕が感じた日本との違いと感想です。

1、左右が逆:慣れます。すぐに。あと、他の車を参考にして走れば問題無いです。時々Uターンした時に周りに車がないと混乱することはあります。

2、信号が少ない:ボストンコモン周辺以外は明らかに日本に比べて信号が少ないです。横断歩道があっても信号はないことが多いです。このへんは歩行者優先が徹底されていて、渡りたそうな歩行者がいると積極的に車は停止します。なので、歩行者の多いCentral stのMassachusetts aveあたりだと車はほとんど徐行で走る感じになります。

3、高速に入りやすい:高速へのアクセスは本当にイージーになっています。町の中心部どこでもからすぐに入れるようになっていて、快適です。

4、高速はアメリカン:ボストンはアメリカの他の地域に比べるといろいろな作りが小さく、ヨーロッパ的といわれますが、高速は本当に真っ直ぐです。ボストン中心地からでも少し走るとすぐに片道4車線の真っ直ぐなだけの高速に入ります。すごく楽です。日本での1時間の高速運転とボストンでの1時間の高速運転では疲労度が全く違います。ほとんどアクセルを踏んでるだけです。

5、高速が安い:激安です。1ドルちょっとでかなり遠くまでいけます。また、帰りも同じ道路を使うだろうという前提で、片道しか徴収されなかったりする区間もあります。

6、道が荒いアスファルトの質が悪く、ぼこぼこ穴が開いています。ときどきガツン!とタイヤが落ちてびっくりします。

7、物が落ちている:時々びっくりするようなものが落ちています。交通規制用のバリケードが風に流されて道の真中に落ちていたりします。なかに水か砂かを詰めるのを忘れてしまったのだと思います。一度はハイウェイの車線の真ん中に2m四方程度のコンクリートブロックが落ちていた事がありした。トラックが落としたようでしたが、上り坂を登り切ったところにあって登ってくる下からはブラインドになっていたので、車を走らせていてギリギリまで気づかず本当にぶつかりそうで危険でした。

8、運転が楽:道は真っ直ぐで広いし、少し郊外に出ると歩いている人は全くいないので本当にぼんやりとして車を走らせるだけになります。日本だと毎日運転して通勤は辛いなと感じますが、ボストンでは全く辛く感じませんでした。

9、メンテが悪い車が多い:いろいろぼろぼろの車が多くて、後ろを走るのが怖くなります。ブレーキランプの片方が壊れていて片方しかつかない車がたくさんあります。こういう車の後ろを走ると、片方のブレーキランプが壊れていて光らずもう片方のランプしか光らないから方向指示器をつけたように勘違いしてしまい、びっくりすることがあります。

10、バイクは追い越しをしない:かなり渋滞していて車が止まってしまっていてもバイクは車の後ろできちんと待っています。横をすり抜けて追い越しをしていくことはありませんでした。これはかなり厳重に守られていました。

11、飲酒運転については甘い:運転免許取得時には飲酒運転についての罰則などを勉強しますし、地元の人に聞いてみても「キビシイ」と答えますが、飲んで事故らなければ良いというのが地元の人達の感覚のようです。実際飲酒検問は一切ありません。パーティー等があるとだいたい一人一台運転してきて、飲酒してそのままみんな自分で運転して帰宅します。怖いです。

12、スノータイヤを履かない:ボストンの冬は厳しくよく雪がふるのですが、一年中「オールシーズンタイヤ」です。何人かに聞いてみましたが一人も冬にタイヤを変えるという人はいませんでした。チェーンは法律で通常での使用は禁止されていて「危険で必要なときのみ」と定められています。

13、除雪はすごい勢いでする:大通りの除雪はかなり頻繁に行われます。また、融雪剤をまきまくるので、大通りはそうとうな大雪の翌日でも車の通行が可能です。クルマたちは徐行しながらですが普通に通っています。裏通りの除雪はほどほどです。スノータイヤではないので、スリップしまくりながらなんとか車を大通りに出して、通勤していくというかんじです。

14、「ラウンドアバウト」が多い:慣れると楽ですね、交差点より。ボストンでは方言で「rotary」と呼ばれると聞いたこともあります。(link) によると一般的にはrotaryは大きな半径のラウンドアバウトを言う様です。1車線のものは本当に楽で便利ですが、2車線になると、交差点内に入るのがすこし面倒になります。基本的に交差点内(円形の車線内)に入っている車が優先なので、延々と車列が続いて入れないことがあります。

15、路駐が多い:アメリカでは路駐は普通の権利なので、都心になると路駐だらけです。パーキングメーター式の路駐駐車場はほとんどすべての道路に備え付けてあるような感じで常に一杯です。アメリカ人の感覚では「路駐できるのが当たり前で、都心だからやむなくお金を払っている」という感じなので、とにかく路駐だらけです。

16、駐車場代が安い:だいたい都心でも25セントで15分程度は停められるので、1時間で1ドル程度ととても安いです。東京は1時間で2000円と話したら、同僚はとても驚いていました。

17、ez pass便利:アメリカ版ETC。E-ZPass MA Program - Highway Division - MassDOT 日本との違いは、アメリカでは機器自体をリースで行政から借りるという制度。機器は電池で動作する形式になっているので車の工事は必要ない。機器自体がクレジットカードや銀行口座と紐付けられているのでETCカードもいらない。強力なマジックテープみたいなのでフロントガラスの内側にくっつけておしまいでラクラクでした。陸運局行けば簡単にリースの手続きが出来ました。帰国時も郵送するのみでシンプルでした。

 

運転していての感想は、個々のドライバーが積極的にルールを守っている感じがあったのが印象的でした。あとは高速道路の楽しさですね。

海外旅行された時にレンタカーして運転してみるのも楽しいと思いますよ。

1945年以降に精神科で起きた10個の重大な変化

精神科や脳科学については近年様々な進歩があると報道されますが、実態はどうなのでしょうか。少なくとも僕は10年以上精神科医として仕事をしてきて、「すくなくともこの10年は大きくは変化していない」と感じています。その中で気になった記事です。

 

www.psychiatrictimes.com

 History of Psychiatryという雑誌があるというのも驚きですが、その雑誌の25周年記念の記事だそうです。

イリノイ大学の歴史学教授であるMark Micale氏によると

 

1.1950年代の精神薬理学の革命
2.脱施設化
3.精神分析学の衰退
4.精神療法の精神科医から医学の訓練を受けていない人たちへのシフト
5.ビッグサイエンスの台頭
6.1980年代からのMood-stabilizingやMood-enhancing化合物の発展と普及
7.製薬会社の影響力の増大
8.DSMインパクトの増大
9.精神科診断の激増
10.同性愛の脱病気化

 

が1945年以降に精神科で起きた10個の重大な変化とのこと

要は、精神療法が中心ではなって薬物療法が中心となる流れがあることと、操作的診断基準が隆盛してそれに伴って診断構造が変化している、とまとめられそう。

もしこれにいくつか付け加えるとすると、、、

 :入院の短期間化 (「脱施設化」に含まれそうだけど)

 :器質性精神疾患の診断力の向上

 :てんかんの非精神科化

 :スティグマの減少

 :精神外科の衰退

 :発達障害診断の隆盛

とかでしょうか。

 

以下はぼくが考えた「精神科で昔から変化なく今も続いているもの」です

 :ECTの変わらぬ有用性

 :統合失調症圏と気分障害圏の境界にある患者の診断の困難さ

 :バイオマーカーのなさ

 :本人の素因による病気なのか、環境による病気なのか判断が困難なこと

 

脳の世紀と言われたり、オバマが脳の解明を推進すると宣言したりしました。

MRI,SPECT,PET等、「のうみそ」を調べるモダリティは増えています。

でも、その技術の進歩や興味の拡大の大きさに比べて実際の精神科臨床の進展はとても小さいように思います。従事している間になにか大きなイノベーションがあるのではと思って精神科医になったのですが、これまでのところは明らかな驚くようなイノベーションはないように感じています。

今後の10年での変化はどうなるのでしょうか。

 

 

(History of psychiatryという雑誌は1990年から季刊で出版され続けていて驚きました History of Psychiatry

適正な医療の提供と「サービス」との間で

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夜間休日は「ほどほどの」医療

夜間休日における1次,2次医療についてです。1次,2次医療とは、比較的軽症で自分で医療機関にかかることが出来る患者さんを相手にした医療のことです。3次医療になると本当の意味で急を要する医療になります。

私は精神科医ですが、時折一般の(1次,2次の)救急業務を夜間休日に手伝わされる事があります。たまにではありますが、総合病院に勤めていると当番が回ってくるのでしかたがないのです。救急救命の先生たちが救急車で来た症例をバンバンこなしている横で、歩いてきた症例をおっかなびっくり拝見したりしています。熱が出ている、頭が痛い、などの症状があって患者さんたちが病院にやってくるのを、精神科医の私が拝見するのです。私も不安ですが、患者さんも不安だと思います(苦笑)。

この仕事の時に私が考えているのは「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」ということだけです。「ちゃんと病気を診断しよう」とか「ちゃんとそれぞれの患者さんにオーダーメイドされた検査をしよう」とかにはそれほどこだわりません。もちろんそれらをすることが上記の目的に近づく場合もありますが、少なくともそれにこだわることはありません。治療も「風邪だから抗生剤は出さない」などとかたくなな「正しい」医療行動をしようとはせず、患者さんからの希望があれば風邪だと自分が思っていても抗生剤も出してしまうこともあります。説明して啓蒙しようとしてお互い嫌な気分になるなら、素直に患者さんに従ってしまって問題化するリスクを低くします。そして「悪化するようならまたきてください。できれば昼間に来てください」と言って帰宅してもらいます。

一般の方にこれを言うと気分を害する方がいます。どうも私の考えは理解できないようで、彼らは「常にフルパワー」「いつでもMAXの良質な医療」を求めているようです。彼らにとって医療は24時間どこでもいつでも完全なものでなければならないようで、夜間休日でもほどほどですましてはいけないと主張するのです。

私は夜間休日の一次、二次の救急外来では上記の私のような対応が適正な医療の提供だと考えています。夜間休日は病院は「お休みモード」です。普段のMAXのちからが出せる状態ではありません。病院によってどこまで夜間休日のパフォーマンスを下げるかは異なりますが、夜間休日の方が平日昼間より働いている職員が多いという病院はさすがに存在しないはずです。よくあるパターンは:夜間休日は院内で出来る採血検査は出来る(ただし技師当直がなく医者が自分でやらないといけないこともある)、レントゲンとCTは動くけどMRIは夜は無理、当直している医者は一人でバックアップとして電話していい人が一人決まっている。というような感じです。僕が勤めているのは大学病院ですが、それでも精神科医が休日夜間の一般外来に駆りだされているのです。三次救急はそもそも救急搬送された重傷者しか来ないので話は別ですが。

この夜間休日の状態で来院された患者さんはそれ相応の医療しか受けられないことになります。また、この夜間休日の状態では医者はそれ相応の医療しか出来ないことになります。この中では、私は「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」という医療態度は十分適切な医療の提供になると思っています。

 

医療はサービス業なのか

これは延々と議論になっているテーマです。確かになにかのサービスを顧客に提供するという意味ではサービス業かもしれません。では、サービス業だから「お客様は神様」で徹底的に個々の患者さんに目一杯の満足を与える「サービス」を行うべきでしょうか。

僕は違うと思います。医療は常にどの国においても公共の施策と密接に結びついています。日本では保険でやる以上、受診料などの患者さんが医療で払うお金は政府に決められています。これは価格が公定で決められている水道や電気と同じことです。広告も規制されています。つまり、医療は少なくともレストランや他の一般のサービス業とは形態が異なるのです。医療というのは公共の福祉という観点から政府が決めた原則に従って行われるサービスなのです。政府がに決められた医療費や制度を考えると、そのような医療は政府からも求められていないように思います。夜間救急での1次2次の患者さんに対しては「病名までははっきりわからないけど、あなたの状態は死ぬ可能性やものすごく悪くなる可能性がなさそう」という医者からの情報の提供は十分に要求に応えるサービスだと僕は思います。

 

適正な医療の提供と「サービス」との間で

僕は夜間休日に来院する1次2次救急では「この後に死ぬ可能性のある人やものすごく悪くなる可能性のある人を見逃さないようにしよう」という医療態度を夜間休日にはとっていて、これが出来る範囲で適切な医療の提供であって公共の福祉の観点から求められているサービスの提供を十分に満たしていると考えているというお話をしました。

ただ、もちろん患者さんは困って来院しているわけですからなんとかそれに応えたいというのも医療者として素直に思うところです。きちんとした診断と治療は最も重要です。できれば笑顔で接したいですし、なるべく早く良くなってもらうよう工夫をしたいと思います。苦痛は少ないほうがいいし、待ち時間も少ないほうが良いでしょう。僕も夜間休日でもそういった医療が提供できるようにと考えた時期もありましたが、今は上記の姿勢が適切な医療であると考えるようになりました。それ以上は「サービス」であると考え、自分が余裕があるときのみにやるよう努力しています。もっとたくさんの「サービス」を安定的に夜間休日に行えるようにできれば良いのですが。

しかし、僕が設定する適切な医療以上の「サービス」を行うかどうかは費用対効果の問題や医療に何を求めるかという思想の問題などにも絡んでくるので僕の個人的な行動だけで変えることができるわけではなさそうだなとも思います。常に24時間完璧な医療ができるような制度があれば良いのですが。

「専門家」は言ったもの勝ち

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医療業界での話です

どういう人が「専門家」と呼ばれるようになるのかが疑問でした。

 

業界と一般の知識ギャップ

僕が知っているクリニックの院長は、勝手に専門家を名乗るのが得意です。この辺の嗅覚はすごくすぐれていて、あまり「専門家」がおらずはっきりとしたエビデンスのないジャンルで勝手に専門家を名乗りテレビ等の取材を受けてしまいます。別にそれについて研究をしたりすごく勉強したわけでもないのに。教科書的なことを簡単に説明して、取材を受けています。そうするとそういった微妙なジャンルの患者さんが来院します。充分な治療はできません。だって充分なエビデンスのある治療法のないジャンルだから。でも、患者さんは来るのでクリニックはとても儲かっているようです。そしてそういう微妙なジャンルは生死にはかかわらないので充分な治療でなくても大きな問題にもなりません。

医療業界は専門家の集団で出来た世界です。ほとんどの医療者、特に医者はそれぞれが自らが携わる医療についてかなり突っ込んだ知識を持っています。当然医者全員が患者さんより知識を持っていて、情報格差で利益を得ています。その情報格差は非常に大きく、上に書いた院長程度の知識でも一般相手であれば上っ面の知識だとバレることもなく偉そうなことが言えてしまいます。

しかし、その医者の中でも特に「専門家」と呼ばれる一群があって、彼らは学会やメディアで様々な影響力や発言力があったりします。彼らそれぞれは基本的には細分化されたジャンルの専門家と名乗っていることが多いです。

しかし意外ですが、彼らの講演を聞いて、彼らの著作を読んで、僕が感銘を受けることは少ないです。むしろ彼らの知識や技術と僕の知識や技術との差の小ささに驚くことが多いです。ずっとなぜか不思議に思っていたのですが、バイト先の院長をみていて徐々にわかってきました。

 

業界内での情報格差の少なさ

医療では個々の構成員の知識水準が非常に平準化されています。医療業界は専門家の集団で出来た世界であるとともに、非常に平準化された世界でもあると思います。

医療に携わる人間は、かなりの割合の人が十分な水準の知識を持っています。また、多くの医療人が共有している知識はエビデンスが明確なものであったり、実地の医療で有用なものであったりします。

逆にかなりの割合の人が知らないあるいは自信のない知識というのは、実地の医療においてほとんど出番のない知識であったりします。あるいはエビデンスが不明確であったり、実地の医療で出番が少ないものであったりします。

結果、役に立つ、よく使う、必要な知識については業界内では差がついていないということになります。そしてそれ以上のことを知っていてもアウトカムにはそれほど結びつかない様に思います。

専門家達は前に立って話すときには当然聴衆の役に立つ話をしたいと思うでしょう。また、しっかりエビデンスのある確実な話をしたいと思うでしょう。しかし、そういう話をすると医療業界では聴衆の知識と大きく乖離のある話ができないということになってしまいます。

 

「私は専門家だ」と言ってしまった人勝ちだと思った。 

結局「私はこの分野の専門家である」と宣言してしまった人の勝ちなのだと思いました。そうすればその人が専門家ということになってしまいます。業界内で知識が平準化されて差がつかず、業界外とは知識格差が大きい医療という分野ではそれはとても効果的です。前述の院長などはそうしています。

もちろん、業界内部で批判を受けます。面の皮は厚くないとできません。僕はこつこつと実績や知識を積み重ねることで評価を受け、そういった人が専門家だと自然に認められ、表に出ていくのだと思っていましたし、そう行動してきました。でも、そうでもないようです。知識格差の少ない専門家集団内で突出した知識を有していなくても、行動力や声の大きさで「専門家」と認められてしまうのです。「私は専門家だ」と言ってしまえばそれで良いのです。主張するのはとても大事です。

僕はこれまでそれに気づきませんでした。これからは少しずつ行動を変えていきたいと思います。

 

*1:Rupa Panda